Organic Fertilizer

趣くままに、これ日々、雑記

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それぞれの秋

  • 2010年10月07日(木)21時59分

 雑貨屋のオバサンの店にピーナッツを買いに行った。あまりめぼしい物のない店だが、ここで扱っている殻付きピーナッツは小ぶりながら国産表示で味も香りもそれなりにいいのだ。中国産のは安くて豆がデカイものの味が悪く、煎り方が違うのか、あの独特の香りもない。

 この店ではタバコも売っている。そのタバコ陳列棚の前に初老の男が二人、丸椅子に腰掛けて店のオバサンと談笑しつつ缶コーヒーを飲んでいた。話を聞いていると、タバコ値上げの愚痴らしい。例に漏れず、先月末にはこの店でも値上げ前の駆け込みまとめ買いで大わらわだったらしい。月が明ければあの騒動が嘘のようで、今ではカートンで買う客などまだ一人も現れないそうである。

 オレはこの際タバコをやめた、と一人の男が言う。 ケッ、いつまでもつか見ものだわい、と相方が突っ込んでいる。オレなんぞはやめるのをやめたのだと、むしろ偉そうだ。しかし話が進んでいくと、その男もカミさんに五寸釘を刺されているそうだ。それだけ吸い続けたければ勝手にせよ、その代わりに酒代を半分にすると通告されたらしい。一家の財務大臣なら当然の処置だ。

 面白いので外野から投げかけてみた。 それでは、タバコと酒を天秤に掛ける判断を迫られたということですか? と問うと、その通り、どちらかを泣けと言われればオレは酒の量を我慢できる、と苦笑いしながらの返答だ。
 すると禁煙宣言の男がぐいと肩をせり出した。オレは酒の方が大事だわい、ただでさえみみっちい飲み方で辛抱しているというのに、これ以上酒代減らされちゃ生きて行けやせんわな、と切実な話だ。なんだか二人とも可愛らしいオジサンに見えてくる。

 総合的な判断では禁煙宣言の男に理がある。タバコは百害あって一利無し、酒は百薬の長だ。タバコなんぞやめて旨酒に回した方が賢明だ。口が寂しければ松坂大輔みたいにニボシでも囓っていれば健康的だろう。そうすれば家族は喜び職場の者にも歓迎されようというものだ。 ただ、お二方が愛すべき中年男達だったので、それは言わずにおいた。談笑している人々になにも外野から波風立てる必要はない。人生色々、人それぞれの秋なのだ。

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球団の身売り話

  • 2010年10月03日(日)07時06分

 本拠地が新潟のプロ野球球団ができれば、球界にも地元にもいいではないかと思う。なにより野球熱を持った地元市民の後押しがあるのなら、それが最も重要で心強い。高額な球場使用料をぶん取られるくらいなら新天地もやむなしだ。

 TBSも保有のメディアを活用すればもっと上手くベイスターズ人気向上のバックアップが出来た筈で、どうにもハナからやる気の無さが目立った。球団の身売り話など、このような場合、何かに付け読売の一老人の御意向伺いに走る球界体質に問題があり、オーナー会議と称しても広域暴力団の寄り合いか地方土建屋の談合会議にしか見えず、アヤシイことこの上ない。

 今期Bクラスになってしまった3球団の中で、「黄金時代」 というべき強い数年間からまるで遠ざかっているのはベイスターズだけで、やはり勝つチームでなければ人気の浮上も難しかろう。有力選手を何人も抱えているのだから、今更 「あそこで松坂大輔を引き当ててさえいれば」 などと愚痴るのは子供の言い訳にもならない。
 シーズン通算総得点では優勝した中日と大差ない。失点で大きく離されてしまうのを見れば、投手力が弱すぎる。毎年課題にはなっているのだろうが、例えば海外からそれなりの助っ人も引っ張って来れないというのは球団の体勢問題だ。
 各チームとも球場周辺整備まで含めた総合的な観客動員計画も必要とされる。チャラチャラしたアッパラパー芸能人に始球式でもさせればよいという程度のアタマでは先行き必ずしも明るくはない。

 球団を保有しているというブランドメリットだけを求めるなら遅かれ早かれ失敗する。野球を理解し、野球が好きな連中をそれなりのポストに据えなければ話になるまい。楽天イーグルスは発足から良い傾向でやってきたものの、ここへ来て長期ビジョンに疑問も生じる。実績と共にファンに人気があった野村を解任したのは新鮮なイメージが欲しかったのか、それとも球界の宝にベンチ内で倒れられたのでは親会社の責任にも発展しかねないと考えたのか。取り急ぎなぜブラウン監督だったのか。その辺りは仙台のファンも首を傾げるところではなかろうか。

 一方、高田監督のシーズン途中辞任という事態に陥ったヤクルトスワローズは、小川監督代行という形で驚異的な復活を見せる。これは小川監督の手腕もあろうが、高田前監督の長期ビジョンによるチーム作りの成果でもある。日ハムファイターズの監督からゼネラルマネージャーまで務めた高田の、目先だけではないチーム強化戦略の賜ではないか。来期、ヤクルトスワローズは強いと思える。なにせ今期中日ドラゴンズに勝てたのはこのチームしかないのだから。

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顔

  • 2010年10月02日(土)02時04分

 女性の「困り顔」 というのにスポットライトが当てられているのだとかいう噂だが、困った表情に近い、或いはそう見える顔の作りなのか。困ると眉間に何らかのシワを発生させる人も中にはいるではないか。まさかそんなのではないだろう。それとも情け無いような表情に見える人のことか。
 挑戦的なキツい印象とは逆の人を指すのかもしれない。であれば、一見気弱そうで従順そうに見える女性を好む男共は昔から変わらず多かろうに。今更 「人相屋」 とか 「顔面評論家」 が論評するほどのものでもない。

 一昔前はアイドルでも工藤静香とか堀ちえみといった方々はそのテの御尊顔ではなかったか。ちなみに、プリキュアの洋館住人・レギーネ女史などは数あるアニメの中でもその典型で、ああこの娘を守ってあげたいと思わせるのを通り越して、お前、世の中に楽しみのひとつもないのかい、と同情まで買いそうではないか。

 あくまでも 「見てくれ」 の話で、その人が本当に控えめでおとなしいのかはまた別である。性格がまことにそのようなのであれば日頃の面立ちにもおのずと表れてもこようが、女子高生がカワユク見せようと尻肉の窺えるほどにスカートを短くたくし上げるのと同様、それが作り表情の演技ならばいかな馬鹿男共とて即座にそれは見抜くだろう。
 仕掛け屋共が “流行り” だとして吹聴して回り、そのようなメイクもしてくれるお店もあるらしいが、女性達はファッションとしてそれに乗っても、男をオトす道具と考えない方が身のためではなかろうか。

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映画化

  • 2010年09月29日(水)22時23分

 アニスレを賑わしているのは 『けいおん!』 の映画化。第26話の番外編終了と同時にその予定をぶちかました策は、ファンには寝耳に水の朗報かそれともシラケか。どちらにせよ大騒ぎである状況ならば、仕掛け側には相応の掴みを得た感触だろう。よくある、「お後はOVAですので、BDでもお買い求め下さりませ」 という売り方にしないのであれば、それは正解だと思われる。

 癒し系とも言える学園アニメなだけに、映画館で何を見せるのかと問われもしよう。派手なアクションがあるのでもなく、お嬢さん達の茶話会が主たるイメージだ。やはり彼女等の “武器” は学園祭ステージになると思われ、シアターの大画面でライブを見せるのが山場である筈だ。
 勿論、娘達のあどけない繊細さをまた見せて貰いたいという人は多いだろう。ただ、若き男女の恋愛感情というありきたりを一切排除して売れた作品だけに、映画化に際して初恋物語を描いても不発に終わるどころか、非難囂々でもありそうだ。映画にするにしても、男の子出演は御法度であるに違いない。

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200本安打

  • 2010年09月27日(月)17時16分

 大相撲の白鵬が強い。これはしばらくライバルなんぞ出てきそうにない。足元が盤石なだけにうっかり相撲の取りこぼしも無さそうで、双葉山の記録も11月にはクリアするだろう。こうなってくると、では一体誰がこの驚異的連勝を止めるのかが俄然注目される。大相撲ファンの興味は今後その辺りになりそうだ。

 野球では200本安打という数字がやたら紙面上を躍る。イチローのメジャー通算10年連続。日本では二度目のヤクルト青木、ロッテ西岡と阪神マートン。
 イチローが記録した当時は130試合。今は144試合。単純計算して130試合で200本打つなら144試合では222本打たねばならない比率計算になる。イチローは130試合で210本打ったのだから、今年は233本打って同じペースになる。ちなみにメジャーで262安打を記録した年は161試合だ。このペースは144試合に当てはめれば234本となり、1994年と2004年は全く同ペースで安打を量産したことになる。こうしてみると、イチローはとんでもない安打数を記録したものだと改めて驚かされる。

 面白いのは、マートンが右打者、青木は左打者、西岡はスイッチヒッターという3種の打者が200本を超えた点だ。打高投低傾向が続く中、投手はますます苦労する。一線級の投手はみなメジャーに目を付けられているし、今後もエース級が海の向こうへ引き抜かれていくなら、200本安打超えの打者はいずれ3人程度では済まなくなりそうではないか。

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日本刀の心

  • 2010年09月26日(日)06時58分

 「ストライクウィッチーズ2」 も終わった。最後は坂本少佐の扶桑の刀、いわゆる日本刀がものをいう。見渡せば日本刀が用いられるアニメのなんと多いことか。「聖剣の刀鍛冶」 では幾度も折り返して鍛錬する呪文も見られた。日本のアニメだから日本刀なのだという訳でもないだろう。西洋の剣や青竜刀に比べてその方がウケるというのならば、美術品としての価値も高いその姿、その美しさ故か。

 そうではあるまい。我々は無意識のうちにその刀を通して日本人の心を見ているのだ。それは高潔を誇る武士の精神、魂と言い換えてもいい。カミソリの代用に髭も剃れる繊細な鋭利さと、骨をも断ち切る玉鋼の強靱さ。鍛錬の過程で生じる絶妙な反り。刀匠と呼ばれる名人がそこに魂を込めて技を発揮する製造方法からしても、ただの長尺刃物とは完全に一線を画するシロモノだ。

 妖刀と呼ばれる物騒なものもまことしやかに語られたりする。今宵の虎徹は血に飢えておる、などというセリフは有名だ。幾人もの血を吸った刀はそうなる可能性があるのなら、そいつは紛れもなく血に飢えた生き物ではないか。武士道を地でいくようなお侍が腰に差しているならいいが、イカれた野郎や暴力団が振り回すのは 「ナントカに刃物」 でしかなく、ただの人斬り包丁だ。やはりそこに魂が存在するという信仰めいた思いは我々が持つ敬虔な感情で、修行と鍛練を積んでその高処に行けた者だけが手にすることが出来るという崇高さを少なからず日本刀に見ている。




 かつて武士は刀という武器をもって世を支配した。武力制圧で民を脅かしたのとは少し異なるが、あのような刃物をかざして 「従え」 と命じられたのでは怯えながらでも言う事を聞かざるを得ない。なにせ庶民には武力がない。その負の部分を埋め合わせるかのように武士が見せつけたのが求道精神や高潔な姿ではなかったか。

 慎ましさの中に研ぎ澄まされる感覚、気高く厳格な礼節を重んじた隠忍自重の姿勢、彼等の魂である刀をもって煩悩を断ち切るという独特の世界観を示し、刀を腰に差して道の真ん中を横柄に歩くが、ある面、自らを厳律の中に置いた修行者の姿と重なって民の目に映った。彼等に対する敬いが徐々に生じたとしても不思議でない。それは精神性に於いて、民の手本ともなった。勿論、庶民に武士の真似が出来る筈もない。理不尽を捨て置かず “恥” を忌むのが美徳とされる、その辺りが道徳観念として庶民に浸透したのではないか。

 有名な松の廊下刃傷騒ぎから赤穂浪士の討ち入り事件、いわゆる後に語り継がれた 「忠臣蔵」 には庶民感情が表れているだろう。時の将軍は希代の馬鹿殿・犬公方である。人間様より犬を大切にせよとの理不尽さは庶民に鬱憤を募らせた。そこで起こった刃傷事件と肩手落ちな裁断に向けられた世論は、野次馬根性と言うよりは、どうにも納得ならぬ閉塞感への反発ではなかったのか。結果、吉良は悪役にされ、お家断絶の浪士達には武士の意気地が期待された。片や理不尽、間抜け面でそれに従順なだけでは “お家” の恥、武士の恥ではないかというものだ。

 やがて悪役の吉良は首を取られ、浪士達は本懐遂げた上での切腹という人々の納得出来る形で騒動は終わる。「さむれぇってなぁよ、やっぱこうでなきゃぁいけねぇわな」 といった溜飲の下げようである。浪士を義士と称え、やんやの喝采で後に幾重にも脚色された物語として現代にまで至らしめるのを見れば、庶民が理不尽に対する武士の意地とその本懐をいかに尊んだのかが窺い知れる。武士でなくとも、侍とは何たるか、どうあるべきかを知っており、武士の美徳はそのまま民衆の美徳として人々の精神に刻まれていた。

 明治になると列強相手に富国強兵の世となり、武士道や神道はそのために利用される。国は武士の精神をそのまま軍に取り入れようとした。侍の世とは違って雑兵が多数を占める国家の軍隊。非戦闘員まで含めた国民に何らかの統一精神を植え付けるには武士道は格好の材料であった。しかしそれは劣勢と同時に妙な方向へねじ曲げられてもいく。

 一億玉砕などという 「城を枕に討ち死に論」 は圧倒的物量と大量破壊兵器の前に役立たず、未来の国家を背負うべき若き命が次々に散らされる。無駄死にだろうが何だろうが死ぬことだけに美を見いだそうとした断末魔の狂気が窺える。敗走の中で子供は泣きわめいて敵に見つかるから始末すると、小さな同胞子女に向け軍刀を抜いた軍人などはそれのどこに武士の精神があろうか。挙げ句の果てには民間人を置き去りにし、我先にとトンズラこいた軍の無様さにはサムライの 「サ」 の字も見当たらない。

 国軍がそのようにだらしない連中ばかりだったと言うつもりは毛頭ない。語り継がれているようにサムライスピリッツな軍人も多くいた。故に敗戦後の復興日本国がある。統制下の教育で国家的精神を植え付けようとしてもおのずと限界があるということだ。また崇高な求道精神はそのような教育で得られるものでもない。幾年にも亘る修行と鍛錬の中にこそ見いだせる。
 オカルト、神霊マニア的な言い方をするなら、そもそも軍刀という大量生産の刀に魂など宿る筈がないではないか。刀匠の身になって考えてみるがいい、軍刀の大半はまがいものの “ナマクラ” でしかなかっただろう。

 焼土の中、占領軍の統治が始まる。醤油は作るなパンを喰え、から始まって日本文化とその精神性の解体に容赦無い。それでも我等の先人達は菜っ葉と塩だけで子を育て、古くから根付いた教えを継承する。黙して耐え忍ぶ厳しさと恥を知らねばならぬ潔身の尊さである。刀と武士が築いた民族の誇れる精神である。
 我々は当時の人々に感謝しなければならない。一度滅ぼされたかのような焼け跡から欧米が目を見張る驚異の復興を為し得たのは、狡賢く物真似上手な器用さを持つ民族であったからではない。GHQの下、異文化を強制されつつも脈々と受け継がれる清廉な日本刀の心を持ち続けたからである。我々が今こうしていられるのはそのおかげだ。



 わざわざそこへ行かずとも豊かになった一部の中国からそこの様子が映像で届く。あれを見る限り、およそ礼節など縁遠い人々に見える。何かあれば我先にと殺到し、ルールは破られるためにありそうだ。チケットを奪い合い、列車への乗り込みも押し合いへし合いだ。とにかく他人より先にそれを手中にせねば生きていけないらしく、手段を選ばず警備員の制止を振り払うみっともない姿には恥も外聞も無いように見える。敗戦直後の買い出しやヤミ市でもあのような真似はしなかったのではなかろうかと、恥を知る日本人の我が目には卑しく浅ましい餓鬼のように映る。

 いいものをパクって何が悪いという風土であるらしい。知的財産とは何たるものかを教えても無駄だろう。国家そのものが国策として技術パクリのし放題なのだからして、鄧小平が言った 「豊かになれる者から先に豊かになれ」 を捩れば、「盗めるところから先に盗め」 といったところか。
 急激に膨れ上がった拝金主義はもはやどうにもなるまい。それまでの道徳観念などは踏み潰されたかに思える。一党独裁の圧政に於けるガス抜きは国と一部の者達に富を与えたが、解放と富に浮かれる中で生まれた拝金主義の甘い蜜味は打ち消しようがない。世界全域にネットワークを誇る華僑に元からそういう素地があったことも否定できない。

 中国は一党独裁の弾圧政策で保っている非民主主義国である。餌撒きも罠も国策として取り仕切る。企業らしきものはそこにあっても真の民間企業など存在しない。安い労働力や市場をちらつかされただけでホイホイ尻尾を振り、のこのこ出向く前にそういうヤバい国であるという認識が甘すぎよう。結果を見てみれば苦心の技術を丸裸にされ吸い取られるだけで、ザマはない。巨大な盗っ人を肥え太らせ、それが今になって脅威だ脅威だと慌てふためいているうちに領土を乗っ取られようとしている。

 鎖国の島国という極めて特異な条件下で育まれた日本人の心は、他国と比較できるものではない。大陸では侵略と報復が繰り返され、それは強奪の歴史でもある。理屈も大儀もへったくれもない、奪ってしまえば勝ち、それでいいのである。そういう歴史の中で彼等の精神は築かれている。我々が思っているほど我々は他国のそれを理解し得ていない。殊に我が国の政財界に於いて顕著に思えてならない。

 外交や他国内での事業に於いて、他国がまさかそんな理不尽なことはしないだろうと踏んで掛かるのは、言い換えれば日本人の持つ 「恥を知る精神」 の尺度で物事を見ているからに他ならない。お前達はとことん馬鹿ではないのかと思ってしまう。敵に塩を送る情けもそこに生ずる義理も、そのようなものには無縁の相手であることを知るべきだ。武士道の礼節をもってすれば相手も応じるとタカを括るのは極めて愚かである。こと外交に於いては、好意をもって当たれば好意的に返ってくるという根拠などどこにもありはしないのだ。

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売国の行為

  • 2010年09月24日(金)19時22分

 領海侵犯の上、漁船をぶつけてきた船長に、地検が 「日中関係を考慮」 など言語道断。地検が政治外交にそこまで口出しする筈もない。政府の愚かな判断に違いない。これには各方面から非難と糾弾の声が上がって当然で、今の政官財にろくでもない一派が存在するということでもあるだろう。

 都知事の言うように、向こうは暴力団のやり口そのままで、新米与党の間抜け外交やすったもんだの内紛を見計らっては突きにきた。ここで圧力に折れてしまったからには、中国は確実に 「領土問題」 として国の内外に向けた宣伝に成功したと言える。悲しいかな、今のままでは我が国固有の領土を乗っ取られるのも時間の問題に思えてくる。
 脅かせばいくらでも領土を差し出す世話のない島国だと大国は値踏みするだろうし、アジア各国は、やはり中国様には何も言えんのかと、かつてのアジアの盟主の凋落ぶりに冷ややかな視線を浴びせるだろう。近い将来、あの列島は米中で分割されるかもしれん、いやさ、もう米中の密約は出来上がっているのではないかと、極端な見方をする国もあるかもしれないではないか。

 今回の弱腰な対応は、脅されて即座に平伏したその哀れなまでの姿に外交姿勢の全てが凝縮されている。国が毅然たる姿を示さぬ限り、我が国内に於いて対中をはじめ対外運動が起きないとも限らない。それは国の統治能力まで問われよう。アンポンタンの国会議員や官僚共、まさかアメリカ様が我が国を守ってくれると本気で思っているのではないだろうなと、案ずるところがかなり深刻だ。

 国土を差し出すに等しい行為の政府に、国民の失望は甚だ大きいだろう。このまま奴等にやらせておけば国を滅ぼされてしまいかねない、という不安が渦巻く。この失態でもう国会は機能せず、解散総選挙、政界再編は避けられないのではないか。一刻も早く領海侵犯等に対処する法制化も必要だ。

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さなえちゃん

  • 2010年09月21日(火)00時11分

 配信開始された「あぐかる」は対象年齢3歳以上か。ゲーム屋のアニメーションという画面雰囲気を湛えて、さなえちゃんが活躍する。これは地域PRと活性化を狙った御当地アニメ。お米作りの紹介説明もしているから、茨城県教育委員会は推薦者に名を連ねてもいい。小学校の授業で使えそうだ。

 面白い試みではないか。さしあたりネット配信らしいが、JAや地元観光協会をせっ突いてTVの地元局でも放送してあげれば子供達は観るだろう。食べ物も大切にするようになるかもしれない。子供達が少しでも地元の良さを分かってくれるなら、他所に向けたPRの副産物だとしてもそんないいことはない。

 全国的ブームまで視野に入れるならば、ある程度のオタク共に動いて貰いたいだろう。そうなれば、地域のゆるキャラ的な存在から一枚も二枚も脱皮させる必要があるのかどうか。
 まずは踏み出したのだから、さなえちゃんを暖かく育んで欲しいと思う。

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けいおん!! 第2期は 「あずにゃん」

  • 2010年09月19日(日)19時36分

 作者の理想なのか、優しさなのか、或いはアニメスタッフの強調であるのか、年下の少女達がまことによくデキた人物になっている。
 周知の如く、平沢唯は妹の存在なくして日常生活出来ない姉である。ひと昔前のオヤジ、いわゆる “旦那” そのもので、横のものを縦にもしない。ギターを弄る以外はぐうたらゴロゴロするだけで、喰ってはトイレに通い、太らない体質がかろうじて彼女を支えているような日々である。

 その姉を慕い、自分が面倒見なければいけないのだと甲斐甲斐しい世話女房の役割を続ける妹・憂は、自分のそのあり方に少しの疑問も不安も抱いていない。こうあるのが自分の生き方なのだと、その若さにて悟りの境地にあるようで、姉の笑顔に喜びこそあれ苦労などという思いはさらさらない。つまりは、ぐうたらお姉ちゃんを大好きなのである。なんといじらしく健気でよくできた妹であることか。
 いずれ姉の唯は結婚して夫と共に暮らす未来が待っていよう。その時、はたして憂はどうなるのであろうか。人格破壊せずに持ち堪えられるであろうか。それとも新婚家庭に毎日押し掛ける嫌われ姑婆ぁの如くに成り果てるだろうか。先の事ながらその点は少々心配である。姉は高校を卒業していったのだから、もうそろそろ独り立ちさせるべく、自分も世話女房を卒業していいだろう。

 中野梓という後輩少女も実にいい子である。何をやらせても可愛らしいのである。四人の先輩に対する敬いを常に忘れず、生真面目な性格がいじらしさを引き立てている。小学生のプール娘のように真っ黒に日焼けしたその姿は、ちんちくりんなベビーフェイスも手伝って、もはや一緒に風呂に入ってくれなくなった我が娘も小さい頃は可愛かったなと、全国のお父様連中の胸を打ったに違いない。桜高祭にお呼ばれがあったなら、真っ先に「峠の茶屋」へ行くべきだと、ニヘラニヘラ目尻を下げるオジサンも多かろう。二人の茶屋娘が買い出しに来たコンビニの兄ちゃんなどは、夢心地のあまり領収書にハンコ押すのを忘れたのではなかろうか。
 
 第2期は概ね中野梓からの視点で描かれた作品でもあるだろう。新年度初めに新入部員獲得に動くものの昨年の梓のように物好きな生徒はいない。このままでは来年はあずにゃん一人になってしまうと先輩達が気遣う。それがありがたくもあり、また一抹の寂しさも過ぎる。しかし振り返ってみれば今のこの5人がベストであり、残された月日をこの先輩達とだけでやっていくのも悪くない、いや、むしろ今のバンドを変えたくないと気付く。このエピソードから第2期は始まる。

 四人組に後輩一人という編成が梓をマスコット的存在にさせている。梓にとってはどっちを向いても奇妙で個性的な先輩しかいない。ちょっと目を離すとどこかへ飛んでいってしまいそうな先輩連中なのだから、その生真面目さ故に 「自分がしっかりせねば」 と自身に言い聞かせる。そこにまた健気な可愛さが顔を見せる。
 この第2期の第16話で 「梓から見た先輩達」 が紹介されている。第1期で中野梓登場と同時にそれは順次取り上げられていったエピソードだが、第2期で改めて用いられているのは、ひとえに環境の違いだろう。後輩は入ってこなかったけれど、今年はこのままで先輩達と最後の1年を過ごすのだと、梓自ら決断した環境が前提にある。

 この人達はいつになったら真面目にバンド練習するのかと気に病んだ第1期と同じく、クラスの出し物 「ロミオとジュリエット」 に没頭の先輩達に不安が募る。このままでは学園祭ライブに向けた練習もままならない。
 音感の良さとマスターの早さは天下一品ながら、唯先輩には常に助言が必要だ。なにせ錆びた弦を平気で使い続けるような人だし、ネックの反りにも気付きそうでない。私の目の届く範囲にいて下さいというのは梓の本音だ。思えば、あずにゃんには入部以来なにかに付け心配事が尽きない日々であった。

 先輩達の様々な姿を案じ、不安にもなり、悩める日々を送りもするが、このマスコット少女はいつも最後には先輩達の温もりに包まれる幸せ者である。別の見方をすれば、たった1学年しか違わぬ間柄ではあっても、この破天荒な先輩達と生真面目な梓には成長過程な人間の懐の深さに於いてまだまだ大きな隔たりのある事が表されているだろう。

 第1期が2年目の学園祭ライブで幕を閉じたのを見れば、それが彼女等の目標とするステージであるのが分かる。最上級生である先輩達は今年の学園祭を最後にもう二度とそこに立つことはない。このメンバーで曲を披露することはもう叶わないのだ。この学園祭ライブをフォルテシモとするそれに向けたクレッシェンドによって、視聴者は梓に感情移入せざるを得ない。
 華々しく大成功に終わった三年目の学園祭ライブ。祭りの後の寂寞と気怠さ。達成の充実感の中、目の前にある事実はこのバンドの終焉である。泣き崩れる娘達に付き合ってしんみりした気分にさせられるが、気丈に振る舞う後輩・梓の姿に胸のどこかがチクリと痛む。

 先輩達の合格祈願だと神社拝殿に手を合わせ、深々とお辞儀する。こんな後輩は今時何人いるだろうか。授業中に届いたメールには四つの開花桜。その喜びの表情を見れば、返す返すもデキすぎた年下少女達ではないか。
 だがこの気丈さは先輩達の卒業式という日に崩れ落ちる。卒業しないでくれと泣くあずにゃんの姿に耐えられる者はそういまい。ここに於いて、オジサン達はこの愛玩ネコのようなマスコット少女に完全にイカれてしまっている己を知ることになるのである。

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けいおん! は講堂こそが檜舞台

  • 2010年09月19日(日)19時25分

 第20話のラストステージでは娘達が喜びを爆発させる。ド派手なフラッシュも虹色のスポットライトもない校内の講堂。PAもなければスモークも焚けない質素なその場所だが、彼女等には集大成の檜舞台である。やはり作品中の大きな見せ場には違いない。本編中のこういうシーンがそのまま楽曲のPVにもなり得るのはそういう物語であるからだ。他のアニメ作品がまったく脈絡なくこれを真似たところで何の効果もない。

 それにしても、学園祭ライブという小さな世界をこれほどの大舞台として楽しく持ち上げた作品の功績は、称えられて然るべきだろう。高校時代の文化祭では毎年そんなのやっていたな、と大人達は思い出す程度かもしれないが、この時のこの娘達にとっては武道館にも夏フェスにも匹敵する意味を持つ。

 彼女等はプロを目指しているのではなく、メジャーになりたい野心を持つのでもない。学校という閉鎖的世界から飛び出せば夢も可能性も広がるであろう事を直感的に知ることは出来ても、今の自分達にはそんな必要はないと、あえてそれに背を向ける。今の状態がなぜ快適であるのかを彼女等は本能的に知っている。
 春の海ひねもすのたりのたりかな、日々怠惰にマイペースが許される部活環境を構築し、身体が欲してきたらようやく腰を上げて練習でもするかというスタイルだ。傷付き血と汗とヘドにまみれながら必死に這い上がろうとする根性物語とは無縁である。部室に集まればまずお茶だ。細かな規則も縛りもなく、気の合う仲間と好きな音作りが出来る。こんな素晴らしい文化部はない。

 それでも自分達の主張が出来る場は必要で、それが学園祭ライブなのだ。自分達はこういう高校生活を送ってきた、どうだ見てくれと胸を張る。なにやら芸能界バンドの解散コンサートのようにも思えてくるが、そこはアマチュアの部活。売らねば喰っていけなかったなどという「背中の荷物」は何もない。楽しめたかどうか、輝けたかどうか、だけでいいのである。



 第1期の放映が始まる前からして、これはウケるだろうという思いがあった。京アニが女子高生のバンド活動モノをやるぞとくれば、なるほどハルヒの学園祭ステージが得た好評とは無縁でなかろうと誰もが考える。
 期待を裏切ることなく、娘達が楽器を持ち寄り “部活” という名目で軽音コンボを組み上げて楽しむ様子は、同年代中高生のみならずオジサン、オバサンの間でも絶大な人気を博した。
 それは60年代にエレキギターコンボスタイルが我が国に流入定着して以来、世代を貫いて不変である「自分達でヤる楽しさ」なのだろう。そこには小難しい理論講釈もなければ英才教育もない。最初にありきは仲間内で音を合わせる楽しさだ。

 ジェフ・ベック、ジミー・ペイジだのキース・ムーンだのが彼女等の口から語られる。秋山澪や田井中律にとっては爺さんか曾爺さんである。それらは伝説的に語り継がれ、また当時の音もデジタル化でいくらかは容易に手に入る。
 子供達は今世の音が嫌いなわけではない。親父や爺さん達が熱っぽく語る古き良き時代への興味もあろうし、裾野がこれだけ広がりを見せ、多種多様な音が飛び交う現代では、その道の先駆者たる存在のプレーヤーは出現しにくい。当時は開拓的な時代だけにかくなる強者がゴロゴロしており、今や伝説化したロマンがあるのだろう。それらの名は世代を継いで記憶に残されていく。

 映画 『スクール・オブ・ロック』 の主人公はカネに窮したロッカーだ。ニセモノ教師で学校に潜り込み、小学生相手にロックを教える。ギターを肩に掛け、彼は黒板にロックの成り立ち、枝分かれ系譜をぎっしりと書き詰める。大変なものである。こんなヤツ、本当にいそうだなと思わせる “ロック熱” が教壇から発散される。
 原作マンガには縁遠いので知る由もないが、「けいおん!」の作者はここまでやる人でもなかろう。しかし熱さは感じられるではないか。それが大人達にもウケる。虫も殺さぬ面立ちのお嬢ちゃん達からジェフ・ベックだなんだと語られたのでは、日頃ノルマに気難しいツラのオヤジ達もニンマリせざるを得ない。



 タイトル通り、あくまでも学園内の部活にとどめているのが特徴で、作品は学園アニメの域を外さない。「めざせ武道館」「いつかはこの夏フェスに」といったセリフは聞けるものの、彼女等が輝くのは他ならぬ学園祭の講堂ステージである。その場の楽しさ最優先という校内バンドならではの肩の軽い奔放さに、プロの凄味も職業としての苦悩もそこに見ることはない。一応部活ではありながら、音楽準備室に高価なティーセットを持ち込んでは毎日お茶とスイーツの放課後ティータイム。帰り道にたむろするお店を校内に設けているようなものだ。誰が見てもおよそ学校の部活とは言い難い。同年代の少女達から見れば、これで部費分配があって好き放題ドンチャカ出来るなら羨ましい限りだろう。

 高校生バンドのマンガは幾つか目にしたことがある。バンド小僧イコール不良少年という迷惑なイメージが長く消えずに存在するためか、大抵の作品は夜のライブハウスなどがメインで、タバコも吸えば酒も喰らう登場人物が多い。実際、夜間のステージでバイトなどしていれば大概そうなってしまう。そのノリがポップでよいではないかと思ったのは佐藤宏之の「気分はグルービー」で、作者独特の心理描写も好きだった。

 「放課後ティータイム」はそれらいわゆる大人との狭間にある硬派バンドでもなければ、世間様から蔑視されるような素行不良レッテルの娘達ではない。まったく純朴なる少女達で構成される超軟派な学園バンドである。
 第1期の番外編ではライブハウスデビューも果たす。「初々しいお客さん」扱いではあるというものの、そこで出会う他のバンド連中はみな親切で暖かな眼差しを向けてくれる。学校の制服であるからまだしも、さわ子センセのキャピキャピ衣装だったなら周囲があれだけ暖かかったか、いささか案じられるところではあるが。

 高校生ともなれば社会の汚い部分にある程度接するものだろうに、そのような要素を一切除いた純粋さと清潔感がまず受け入れられる。憎たらしい嫌味なキャラやゼニカネの理屈に歪んだ大人など端役にも登場させない。原作が明るく楽しい四コマ漫画とはいえ、こういう理想の学園像が好まれる社会の傾向は喜ばしい。「まなびストレート」も然りだが、学校は楽しいところなのだ、自分達の気の持ちようで高校生活はかようにも素晴らしいと主張する。文科省は作品に感謝状のひとつも進呈してよかろう。

 作者が今でもバンドを楽しんでいるのかどうか知るところではない。少なくともそういう経験を伝えたい意志を持つのだろう。それを汲んだかのようなアニメスタッフのきめ細かさが随所に窺える作品でもある。
 楽器類の徹底した描き込みは言うに及ばず、たまには違う楽器を弄ってみたがる本能や、期末試験対策に勉強しようとしてもついついギターに手を伸ばしてしまう平沢唯の頷ける行動。初めてライブハウスに出た際の一連の準備であるとか、さわ子センセ所有だったヴィンテージギターが倉庫から出てきた驚きの反応もさることながら、思わず唸ってしまうのは先輩、デス・デビルのお姉さんがおでん屋で奢ってくれる場面である。

 オジサンには気色の悪い「ジュースにおでん」の馳走ではあるものの、この場は見事な雰囲気を醸している。五人の娘達には大先輩に対する畏敬があり、唯のギターを弄るお姉さんもそれなりの礼儀を持って他人の楽器に触れている。唯にギターを返す際の心配りといい、どことなくしおらしい五人組といい、この辺りの描きは、いかにもそれに携わっていた先輩と現役後輩による “味” ある情景であった。
 これらを見れば、現役高校生のバンド娘やギター小僧達にエールを送る作品には違いない。やってみなよ、面白いぞという作者の声が聞こえそうで、小難しい理屈は要らない、まずは楽しんでくれとばかりに思える。

 楽器を弄るのも面白そうだと、自分達でオリジナルな音を生む楽しさを中高生に広く紹介しただけでなく、楽曲そのものも驚くほど視聴者に受け入れられた。原作マンガだけではこうもいかず、アニメ作品にして“音”を得たメディアミックスの効果が「女子高生バンドのお話」をより鮮明に突き付ける出来に仕上がっている。
 元よりアニメ化構想と同時にこれは戦略として当然組み込むべき展開手段で、女の子達が素人バンドを楽しむ学園物語という、音売りに格好な題材である以上は、むしろその音楽性、現役中高生に向けてどこか素人臭さがあり文化祭の体育館を思わせる楽曲作りに重きが置かれて当然で、またそれが見事に功を奏した。

 事実、楽器店に足を運ぶ少女達が多くなり、ヴィンテージものの講釈をひとしきり垂れる女の子もいるそうで、楽器店のオジサンが苦笑いしながら頭を掻く様子が目に浮かぶ。秋山澪が使っていたのと同じヘッドフォンをくれと注文が殺到したらしいし、ある種の業界にはあなどれぬ反響ではあったろう。


 ヘビメタ女の苦悩を背負ったさわ子センセには作者の愛嬌がある。べつにその音楽性を掴まえてどうのこうの言う者もいないだろうに、「ああこの身が呪わしい」といった制御出来ぬ“血”の描きに魅せられる。「炎のエコロジー」などを歌うオバメタル・ライジングのオバサマ達もおそらく同様に違いない。そういえば、あのベーシストもレフティではなかったか。

 脚本の妙と言おうか、世代の描きが気に入ってしまう。特殊な部活とその先人達の足跡、デス・デビルの今のあり方は、お茶とスイーツな夢心地少女達に多大なインパクトを与える。色香も重量感もパワーも、女子高生達は大人の凄味を肌で知る。だがこのイケてるお姉様達は現役軽音部に鞭をくれるのでもなければその方向性に激怒するのでもない。元より軽音楽という甚だ広義な括りで存続する文化部だ。代々受け継がれる「部の理念」は、その時感じるままにヤりたいものをヤりたいようにヤる、という一条だけに違いない。

 脅されて顧問になったさわ子センセはステージ衣装のコーディネイトだけ押し付けはするが、彼女等の音楽性に口出しは一切しない。ライブハウスの先輩お姉さんも、おでん屋で奢ってくれたお姉さんも、ああこの子らが今の軽音部なのかと見るだけで、キャピキャピ路線はダメだハードにいけ、なんてことはひと言も口に出さない。実に淡々としたものである。この子達は自分らの音を楽しんでいるならそれでいい、と郷愁にも似た感覚で受け入れているように見える。あずにゃん一人を残して卒業する四人組も、部は今後どうあるべきだと言い残しはしない。梓の代は梓の趣くままにやってくれればいいのである。

 こういう継承のあり方は独特でもあるだろう。多くの部で聞かれる 「部の伝統」 なるものが仮にここにもあるとするならば、それは 「自由奔放」 なのか 「やりたい放題」 なのか。ただ、その世代のバンド名を当時の全校生徒達が知らないなどという事はないのだろう。その時輝いた軽音部バンドの名を生徒達の記憶に残していくのが案外伝統であるのかもしれない。

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