秋風も少し寒さを伴う師走間近な頃。例年通りこの年も実に野放図な二大勢力が激突しようとしていた。天保水滸伝に見る笹川の繁蔵、飯岡の助五郎らの如く、勢力争いに懸ける闘争心がそれぞれの一家に脈々と受け継がれてきており、稲の刈り入れも既に終わって雪が降り始めるまでのこの季節はそれを解放出来る絶好の時季であった。しかし例年激突を繰り返す真相は、地元を取り仕切る親分同士の意地の張り合いが主であり、そのシマの名を売れば良しとする、およそ大望とはかけ離れた稚拙な欲に他ならなかった。
海運の要である辺路寝湊を取り仕切るのは、『仏の赤手拭い』の名で一時代を築いた先代・中川の弓五郎から盃を受け継いだ『大喰らいのなぎ次郎』こと美墨のなぎ次郎であった。腹が減ったのでは喧嘩も出来ないとばかり、とにかくよく喰い、喰っていれば上機嫌という単純な親分であったが、不思議に強運が付いて回り、思い通りに生きる様が子分共から慕われもして街道一とまで言われる一大勢力を維持し続けていた。
これに対抗し得るのは広大な御高倶山周辺一帯を牛耳る永沢の勝蔵、通称『泣きボクロの勝蔵』である。頭角を現したのは近年ながら、その軟弱そうな二つ名とは裏腹に、出入りの度に精進を重ねて積み上げた緻密な算段指図により地域周辺を圧し、辺路寝湊のなぎ次郎と時を同じゅうして御高倶山の大親分を襲名した。烏合の弱小勢力などまるで眼中に入れず、なぎ次郎を倒す事に全精力を傾け、子分共に己の喧嘩兵法を徹底して叩き込むその姿には、泣きボクロならぬ『夜叉ボクロの勝蔵』だと秘かに噂する者もいた。 |