「レイちゃん・・・あたし達・・・来年は中学三年生よ・・・」
「だから?」
「・・・ううん・・・・それだけ・・・」
(もしかしたら、ケンカ売られてるのかしら ?)
けだし名場面ではなかろうか。 ここ第21話ではもう完全に 「アニメ版・火野レイ」 が確立されている。 ムーリド戦だった第11話のエピソードで幾原がかような火野レイに仕立て上げてしまったのだという説も、当時まことしやかに流れたものだった。 実際、幾原が望み好んだ火野レイ像であったとしても、こいつぁ面白ぇやな、それでいこう、それで! と佐藤一派のスタッフがみなどっと沸いたのには違いない。
かくして、悪ノリではないのかと思わせるほどのコミカルさが、これは大人にしか解るまいともくすぐられるテイストを含んで、一気に 「せらむんオタク」 を増殖させていった。 その中で火野レイは霊感少女たる神秘性を極端に抑えられ、早口でまくし立てる怒りんぼな一般的女子中学生を前面に出し続ける。 それ故に、当時このアニメを毎週楽しみにしていた我が身には今の 「セーラームーン Crystal 」 はまったく面白味がない。 幸いにも、サトジュンのせらむんが何十年かぶりにCMのないNHKで流されるというので、これを秘かに喜々としてまた見ている。
思えば、TVの前で思わず声を出して笑ってしまう可笑しさを味あわせてくれる脚本や演出は、今の世の中に殆ど見られまい。 佐藤順一や幾原邦彦らがそれだけ凄かったのだと片付けるのは簡単だが、当時とは社会情勢も違い過ぎよう。 その時代に少女のセーラー服戦隊が生まれ、きん注スタッフの佐藤一派と出会ったのも作品の運命、縁かもしれない。
当時の安月給からでも細々とLDを買い貯めた。 棄てた記憶がないから、あのかさばる邪魔げなイチモツは我が家のどこかの段ボール箱にある筈だ。
サトジュンのせらむんを見ていると、当時の我が生活が鮮やかに蘇る。 キューハチのDOSの上でWINの3辺りを動かしていた。 MACでサクサクやっている連中が羨ましく思えた。 ソヴィエト崩壊、ベルリンの壁崩壊の頃ではなかったか。
この第21話、松野浩美、只下和子、麻藤監督なんていうのが登場する。 松下、只野、佐藤のパロディ名だ。 おおそうだった、懐かしいなと腕を組む。 なにより、この回では火野レイが 「金駐!! 」 の袋を下げてピンクのオーバーオールで現れる。 ほぉ、解ってるな、この子、ヤルじゃないかぃ、と火野レイを好きになった。 境内を掃き清める巫女さんというのも気に入っていた。 竹箒を手にして似合うのは巫女装束の火野レイとジーンズにエプロンの音無響子ぐらいなものだと、頑固にも未だそう言い放っている。
どうであれ、きん注の藤ノ宮千歳がなければ自分はセーラームーンというアニメを見ることもなかったろう。 改めて佐藤順一と藤ノ宮千歳に感謝申し上げたい。