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INDEX Ⅱ 第2話

 当麻君は女難に次ぐ女難の人生に違いない。当人は不幸だ不幸だと嘆いてはいるが、いかに厄介でややこしい連中であれ次々現れる魅力的な女性達を眺めれば、その辺に転がっている大多数の少年には垂涎ものの境遇ではないか。
 その昔、御坂妹達に取り囲まれたのも然り、黒装束のシスターがこれだけ揃い、「女の子臭くてしょうがない」 などという思いをもしも懐くとしたなら、それすらけしからん心情に思えてくる。ああ一度でいいからかように女難の日々を味わいたいと、羨みにやっかみの眼差しでこの第2期も見るはめになりそうだ。

 どこかのネジがちょいと緩んでそうなシスター、オルソラ・アクィナスとバス停で出会った。なんとも疲れる尼さんだが、色白の美顔をその香しきフェロモンに包まれそうな程に近付けられて、これまた芳香漂いそうなハンカチで頬の汗を拭き取って戴ける当麻君を見れば、こヤツはこの上ない幸せ者ではないかと指でもしゃぶらねばならない。

 ちょいとした事故の結末とはいえ、ローマ教会のアニェーゼ・サンクティスの股ぐらに顔を突っ込んで、あられもなくおっぴろげられた股間の下着をまじまじと目に焼き付けてしまう彼の光栄には、なぜお前さんだけそれほどいい思いに与るのだと、羨ましさを通り越してやや立腹する。

 また、ローマ軍は駐車場を占領しての野営を決め込む。自衛隊のテント風呂にナメクジが這うのも実にリアルながら、少女達の入浴裸体をガードするは毎度お馴染みの憎むべき白い湯気である。風よ吹け、団扇はないのかと叫んだところでこればかりはどうなるものでもない。ここでも当麻、お前だけが見たのかと、やっかみはいつしか歪んだ被差別待遇の意識と変わり果て、てめぇコノヤローと口走る始末である。主人公相手に何を喚いているのかと、我に戻るまでいささかの時間を要してしまった。


 トーマは全然遊んでくれないし! という聞き慣れたフレーズが心地良く、警備ロボの上で相変わらずグルタングルタン回転する舞夏を見ると我が家に帰ってきたような気分にさせられる。明治か大正の女流歌人を思わせるローラ・スチュワートや、言葉尻に少し下賤の色濃いアニェーゼ・サンクティス、重要人物ながら本人はアサッテの方を彷徨いていそうなオルソラ・アクィナスなど、おかしなキャラクターの多様さは前作に引けを取らない。

 川田まみが歌うOPの 「No buts!」 もシリーズにマッチしている印象だ。こういうOPの曲はイントロが大事なのではないかとも思う。このシリーズにはバラード調やR&Bでは視聴者はノッて入り込みにくいだろう。キュートでとんでもない能力を持つ連中が繰り広げるアクションだけに、レールガン同様、高揚感を誘うリズムを底面に走らせた方が効果的に思える。

イカ娘は白くて正解

 イカ娘は侵略目的で現れた。ガンプラ好きの軍曹率いる某カエル軍団のようなもので、実に流され易く、いとも簡単に丸め込まれてしまう日々であるようだ。ウネウネにもどこにも吸盤がないように見えるところから、イカなのだろうけれども遙か昔にベレムナイトから別進化した生き物にも思える。

 魚屋に行けば分かるように、本当のイカは鮮度のいいヤツは表面の色素細胞がまだ働いているので色付いている。白くなってしまうのはその後である。が、しかし、赤茶色のイカ娘なんぞ誰も見たくはない。イカ娘は白くて正解だ。まことにチャーミングで、白い色は清潔感に満ちあふれていて好ましく、ゲロ吐くようにイカスミを吐き出すのには少々参るものの、アタマのエラ頭巾の可愛さや発せられるゲソゲソ弁に何でも赦してしまいそうではないか。早苗ちゃんでなくともスリスリしたくなるだろう。ただイカ臭くなるかもしれないので、そこのところは注意した方がよい。

 早苗ちゃんはイカ臭い女の子かもしれないぞ・・・・。

アニメのスイーツ

 最近のTVアニメにはやたら旨そうなものが描かれる。コンチキショー、オイラだって喰いてぇじゃねぇかと、キャラ達が羨ましく、ちょっと悔しい。 酒の肴は元より、甘いものにも目がないので、可愛い少女キャラ達がスイーツを口に入れているのを見せられたのでは、近くにあんなもの売ってる店はないのかと探す羽目になる。

 不思議なもので、飲み物や食い物をいくらCMで押し付けられようとも食指にまでは至らない。それよりはドラマやアニメの中で登場人物がウマそうに飲み食いしている様を見せられた方が唾を飲み込み喉が鳴る。
 夏になれば海やプールを背景にビールCMが画面を賑やかすものの、ああそうかい、オイラなんぞはもっと暑い中で毎日仕事しているのだと、自分にはCMの効果が薄い。夜になって映画やTVドラマを見ていると、主人公がビアホールでジョッキに口を付けている。或いはショットバーでロックのグラスをグイとやっている。大概の場合その傍らにいい女がいる。これはたまらん、飲みたくなってくる。

 昔と違ってTVアニメの美術もそれはそれは美しく写実的になった。PCの力は偉大である。またそこに出される食い物の描きは半端でなく、これ見よがしなくらいに描き込んである。もっとも、自分の見るアニメの殆どが美少女キャラ作品なので、なんたらパフェだ餡蜜だロールケーキだ、或いはウサギさんカットのリンゴ入り手弁当だといった自分の喰いたがりそうなものばかりで、それがまた乙女チックにカラフルなものだから、お前、あれはな、アニメの中の絵なんだよと言われても、馬鹿言うな、こんなもの見せられてじっとしてられるけぇ、となってしまう。

 元より美少女にはカラフルなスイーツがよく似合う。いわばあの美味そうな絵は彼女等の脇役、引き立て助演を務めている。故に手を抜かない。しっかりと描き込む必要がある。「けいおん!」では更にその上、楽器というものの描きが加わった。これで彼女等は無敵となった。
 ニコ動にある「海外オタク達の反応」というのが面白い。寿司は日本では高級料理だったのか、だからキャラの彼女達は喜ぶのか、とか、Bento というのはなんて羨ましい文化なんだ。考えてもみよ、あのキャラが手作りでそれを持ってきてくれるんだぞ・・・・といった具合。それもこれも、作品中で実に美味そうに描かれているからだ。

 他人が美味そうにそれを食している情景は食への欲求を呼び起こす。コマーシャル映像でなぜそこまでの力がないのかと考えるに、これは商品宣伝であるという既成概念が脳内にへばり付いているからだろう。某ニンニク卵黄のようにドラマ仕立てのCMにして大いにウケた例があるように、ケーキ屋さんなどはアニメで取り上げてくれればそれで良し、さもなくばアニメ作品と結託して劇中で採用した方が購買意欲をそそるのではないかと、あらぬ事を想像する。 さりげなく、あくまでもさりげなく、である。

映画化

 アニスレを賑わしているのは 『けいおん!』 の映画化。第26話の番外編終了と同時にその予定をぶちかました策は、ファンには寝耳に水の朗報かそれともシラケか。どちらにせよ大騒ぎである状況ならば、仕掛け側には相応の掴みを得た感触だろう。よくある、「お後はOVAですので、BDでもお買い求め下さりませ」 という売り方にしないのであれば、それは正解だと思われる。

 癒し系とも言える学園アニメなだけに、映画館で何を見せるのかと問われもしよう。派手なアクションがあるのでもなく、お嬢さん達の茶話会が主たるイメージだ。やはり彼女等の “武器” は学園祭ステージになると思われ、シアターの大画面でライブを見せるのが山場である筈だ。
 勿論、娘達のあどけない繊細さをまた見せて貰いたいという人は多いだろう。ただ、若き男女の恋愛感情というありきたりを一切排除して売れた作品だけに、映画化に際して初恋物語を描いても不発に終わるどころか、非難囂々でもありそうだ。映画にするにしても、男の子出演は御法度であるに違いない。

さなえちゃん

 配信開始された「あぐかる」は対象年齢3歳以上か。ゲーム屋のアニメーションという画面雰囲気を湛えて、さなえちゃんが活躍する。これは地域PRと活性化を狙った御当地アニメ。お米作りの紹介説明もしているから、茨城県教育委員会は推薦者に名を連ねてもいい。小学校の授業で使えそうだ。

 面白い試みではないか。さしあたりネット配信らしいが、JAや地元観光協会をせっ突いてTVの地元局でも放送してあげれば子供達は観るだろう。食べ物も大切にするようになるかもしれない。子供達が少しでも地元の良さを分かってくれるなら、他所に向けたPRの副産物だとしてもそんないいことはない。

 全国的ブームまで視野に入れるならば、ある程度のオタク共に動いて貰いたいだろう。そうなれば、地域のゆるキャラ的な存在から一枚も二枚も脱皮させる必要があるのかどうか。
 まずは踏み出したのだから、さなえちゃんを暖かく育んで欲しいと思う。

けいおん!! 第2期は 「あずにゃん」

 作者の理想なのか、優しさなのか、或いはアニメスタッフの強調であるのか、年下の少女達がまことによくデキた人物になっている。
 周知の如く、平沢唯は妹の存在なくして日常生活出来ない姉である。ひと昔前のオヤジ、いわゆる “旦那” そのもので、横のものを縦にもしない。ギターを弄る以外はぐうたらゴロゴロするだけで、喰ってはトイレに通い、太らない体質がかろうじて彼女を支えているような日々である。

 その姉を慕い、自分が面倒見なければいけないのだと甲斐甲斐しい世話女房の役割を続ける妹・憂は、自分のそのあり方に少しの疑問も不安も抱いていない。こうあるのが自分の生き方なのだと、その若さにて悟りの境地にあるようで、姉の笑顔に喜びこそあれ苦労などという思いはさらさらない。つまりは、ぐうたらお姉ちゃんを大好きなのである。なんといじらしく健気でよくできた妹であることか。
 いずれ姉の唯は結婚して夫と共に暮らす未来が待っていよう。その時、はたして憂はどうなるのであろうか。人格破壊せずに持ち堪えられるであろうか。それとも新婚家庭に毎日押し掛ける嫌われ姑婆ぁの如くに成り果てるだろうか。先の事ながらその点は少々心配である。姉は高校を卒業していったのだから、もうそろそろ独り立ちさせるべく、自分も世話女房を卒業していいだろう。

 中野梓という後輩少女も実にいい子である。何をやらせても可愛らしいのである。四人の先輩に対する敬いを常に忘れず、生真面目な性格がいじらしさを引き立てている。小学生のプール娘のように真っ黒に日焼けしたその姿は、ちんちくりんなベビーフェイスも手伝って、もはや一緒に風呂に入ってくれなくなった我が娘も小さい頃は可愛かったなと、全国のお父様連中の胸を打ったに違いない。桜高祭にお呼ばれがあったなら、真っ先に「峠の茶屋」へ行くべきだと、ニヘラニヘラ目尻を下げるオジサンも多かろう。二人の茶屋娘が買い出しに来たコンビニの兄ちゃんなどは、夢心地のあまり領収書にハンコ押すのを忘れたのではなかろうか。
 
 第2期は概ね中野梓からの視点で描かれた作品でもあるだろう。新年度初めに新入部員獲得に動くものの昨年の梓のように物好きな生徒はいない。このままでは来年はあずにゃん一人になってしまうと先輩達が気遣う。それがありがたくもあり、また一抹の寂しさも過ぎる。しかし振り返ってみれば今のこの5人がベストであり、残された月日をこの先輩達とだけでやっていくのも悪くない、いや、むしろ今のバンドを変えたくないと気付く。このエピソードから第2期は始まる。

 四人組に後輩一人という編成が梓をマスコット的存在にさせている。梓にとってはどっちを向いても奇妙で個性的な先輩しかいない。ちょっと目を離すとどこかへ飛んでいってしまいそうな先輩連中なのだから、その生真面目さ故に 「自分がしっかりせねば」 と自身に言い聞かせる。そこにまた健気な可愛さが顔を見せる。
 この第2期の第16話で 「梓から見た先輩達」 が紹介されている。第1期で中野梓登場と同時にそれは順次取り上げられていったエピソードだが、第2期で改めて用いられているのは、ひとえに環境の違いだろう。後輩は入ってこなかったけれど、今年はこのままで先輩達と最後の1年を過ごすのだと、梓自ら決断した環境が前提にある。

 この人達はいつになったら真面目にバンド練習するのかと気に病んだ第1期と同じく、クラスの出し物 「ロミオとジュリエット」 に没頭の先輩達に不安が募る。このままでは学園祭ライブに向けた練習もままならない。
 音感の良さとマスターの早さは天下一品ながら、唯先輩には常に助言が必要だ。なにせ錆びた弦を平気で使い続けるような人だし、ネックの反りにも気付きそうでない。私の目の届く範囲にいて下さいというのは梓の本音だ。思えば、あずにゃんには入部以来なにかに付け心配事が尽きない日々であった。

 先輩達の様々な姿を案じ、不安にもなり、悩める日々を送りもするが、このマスコット少女はいつも最後には先輩達の温もりに包まれる幸せ者である。別の見方をすれば、たった1学年しか違わぬ間柄ではあっても、この破天荒な先輩達と生真面目な梓には成長過程な人間の懐の深さに於いてまだまだ大きな隔たりのある事が表されているだろう。

 第1期が2年目の学園祭ライブで幕を閉じたのを見れば、それが彼女等の目標とするステージであるのが分かる。最上級生である先輩達は今年の学園祭を最後にもう二度とそこに立つことはない。このメンバーで曲を披露することはもう叶わないのだ。この学園祭ライブをフォルテシモとするそれに向けたクレッシェンドによって、視聴者は梓に感情移入せざるを得ない。
 華々しく大成功に終わった三年目の学園祭ライブ。祭りの後の寂寞と気怠さ。達成の充実感の中、目の前にある事実はこのバンドの終焉である。泣き崩れる娘達に付き合ってしんみりした気分にさせられるが、気丈に振る舞う後輩・梓の姿に胸のどこかがチクリと痛む。

 先輩達の合格祈願だと神社拝殿に手を合わせ、深々とお辞儀する。こんな後輩は今時何人いるだろうか。授業中に届いたメールには四つの開花桜。その喜びの表情を見れば、返す返すもデキすぎた年下少女達ではないか。
 だがこの気丈さは先輩達の卒業式という日に崩れ落ちる。卒業しないでくれと泣くあずにゃんの姿に耐えられる者はそういまい。ここに於いて、オジサン達はこの愛玩ネコのようなマスコット少女に完全にイカれてしまっている己を知ることになるのである。

けいおん! は講堂こそが檜舞台

 第20話のラストステージでは娘達が喜びを爆発させる。ド派手なフラッシュも虹色のスポットライトもない校内の講堂。PAもなければスモークも焚けない質素なその場所だが、彼女等には集大成の檜舞台である。やはり作品中の大きな見せ場には違いない。本編中のこういうシーンがそのまま楽曲のPVにもなり得るのはそういう物語であるからだ。他のアニメ作品がまったく脈絡なくこれを真似たところで何の効果もない。

 それにしても、学園祭ライブという小さな世界をこれほどの大舞台として楽しく持ち上げた作品の功績は、称えられて然るべきだろう。高校時代の文化祭では毎年そんなのやっていたな、と大人達は思い出す程度かもしれないが、この時のこの娘達にとっては武道館にも夏フェスにも匹敵する意味を持つ。

 彼女等はプロを目指しているのではなく、メジャーになりたい野心を持つのでもない。学校という閉鎖的世界から飛び出せば夢も可能性も広がるであろう事を直感的に知ることは出来ても、今の自分達にはそんな必要はないと、あえてそれに背を向ける。今の状態がなぜ快適であるのかを彼女等は本能的に知っている。
 春の海ひねもすのたりのたりかな、日々怠惰にマイペースが許される部活環境を構築し、身体が欲してきたらようやく腰を上げて練習でもするかというスタイルだ。傷付き血と汗とヘドにまみれながら必死に這い上がろうとする根性物語とは無縁である。部室に集まればまずお茶だ。細かな規則も縛りもなく、気の合う仲間と好きな音作りが出来る。こんな素晴らしい文化部はない。

 それでも自分達の主張が出来る場は必要で、それが学園祭ライブなのだ。自分達はこういう高校生活を送ってきた、どうだ見てくれと胸を張る。なにやら芸能界バンドの解散コンサートのようにも思えてくるが、そこはアマチュアの部活。売らねば喰っていけなかったなどという「背中の荷物」は何もない。楽しめたかどうか、輝けたかどうか、だけでいいのである。



 第1期の放映が始まる前からして、これはウケるだろうという思いがあった。京アニが女子高生のバンド活動モノをやるぞとくれば、なるほどハルヒの学園祭ステージが得た好評とは無縁でなかろうと誰もが考える。
 期待を裏切ることなく、娘達が楽器を持ち寄り “部活” という名目で軽音コンボを組み上げて楽しむ様子は、同年代中高生のみならずオジサン、オバサンの間でも絶大な人気を博した。
 それは60年代にエレキギターコンボスタイルが我が国に流入定着して以来、世代を貫いて不変である「自分達でヤる楽しさ」なのだろう。そこには小難しい理論講釈もなければ英才教育もない。最初にありきは仲間内で音を合わせる楽しさだ。

 ジェフ・ベック、ジミー・ペイジだのキース・ムーンだのが彼女等の口から語られる。秋山澪や田井中律にとっては爺さんか曾爺さんである。それらは伝説的に語り継がれ、また当時の音もデジタル化でいくらかは容易に手に入る。
 子供達は今世の音が嫌いなわけではない。親父や爺さん達が熱っぽく語る古き良き時代への興味もあろうし、裾野がこれだけ広がりを見せ、多種多様な音が飛び交う現代では、その道の先駆者たる存在のプレーヤーは出現しにくい。当時は開拓的な時代だけにかくなる強者がゴロゴロしており、今や伝説化したロマンがあるのだろう。それらの名は世代を継いで記憶に残されていく。

 映画 『スクール・オブ・ロック』 の主人公はカネに窮したロッカーだ。ニセモノ教師で学校に潜り込み、小学生相手にロックを教える。ギターを肩に掛け、彼は黒板にロックの成り立ち、枝分かれ系譜をぎっしりと書き詰める。大変なものである。こんなヤツ、本当にいそうだなと思わせる “ロック熱” が教壇から発散される。
 原作マンガには縁遠いので知る由もないが、「けいおん!」の作者はここまでやる人でもなかろう。しかし熱さは感じられるではないか。それが大人達にもウケる。虫も殺さぬ面立ちのお嬢ちゃん達からジェフ・ベックだなんだと語られたのでは、日頃ノルマに気難しいツラのオヤジ達もニンマリせざるを得ない。



 タイトル通り、あくまでも学園内の部活にとどめているのが特徴で、作品は学園アニメの域を外さない。「めざせ武道館」「いつかはこの夏フェスに」といったセリフは聞けるものの、彼女等が輝くのは他ならぬ学園祭の講堂ステージである。その場の楽しさ最優先という校内バンドならではの肩の軽い奔放さに、プロの凄味も職業としての苦悩もそこに見ることはない。一応部活ではありながら、音楽準備室に高価なティーセットを持ち込んでは毎日お茶とスイーツの放課後ティータイム。帰り道にたむろするお店を校内に設けているようなものだ。誰が見てもおよそ学校の部活とは言い難い。同年代の少女達から見れば、これで部費分配があって好き放題ドンチャカ出来るなら羨ましい限りだろう。

 高校生バンドのマンガは幾つか目にしたことがある。バンド小僧イコール不良少年という迷惑なイメージが長く消えずに存在するためか、大抵の作品は夜のライブハウスなどがメインで、タバコも吸えば酒も喰らう登場人物が多い。実際、夜間のステージでバイトなどしていれば大概そうなってしまう。そのノリがポップでよいではないかと思ったのは佐藤宏之の「気分はグルービー」で、作者独特の心理描写も好きだった。

 「放課後ティータイム」はそれらいわゆる大人との狭間にある硬派バンドでもなければ、世間様から蔑視されるような素行不良レッテルの娘達ではない。まったく純朴なる少女達で構成される超軟派な学園バンドである。
 第1期の番外編ではライブハウスデビューも果たす。「初々しいお客さん」扱いではあるというものの、そこで出会う他のバンド連中はみな親切で暖かな眼差しを向けてくれる。学校の制服であるからまだしも、さわ子センセのキャピキャピ衣装だったなら周囲があれだけ暖かかったか、いささか案じられるところではあるが。

 高校生ともなれば社会の汚い部分にある程度接するものだろうに、そのような要素を一切除いた純粋さと清潔感がまず受け入れられる。憎たらしい嫌味なキャラやゼニカネの理屈に歪んだ大人など端役にも登場させない。原作が明るく楽しい四コマ漫画とはいえ、こういう理想の学園像が好まれる社会の傾向は喜ばしい。「まなびストレート」も然りだが、学校は楽しいところなのだ、自分達の気の持ちようで高校生活はかようにも素晴らしいと主張する。文科省は作品に感謝状のひとつも進呈してよかろう。

 作者が今でもバンドを楽しんでいるのかどうか知るところではない。少なくともそういう経験を伝えたい意志を持つのだろう。それを汲んだかのようなアニメスタッフのきめ細かさが随所に窺える作品でもある。
 楽器類の徹底した描き込みは言うに及ばず、たまには違う楽器を弄ってみたがる本能や、期末試験対策に勉強しようとしてもついついギターに手を伸ばしてしまう平沢唯の頷ける行動。初めてライブハウスに出た際の一連の準備であるとか、さわ子センセ所有だったヴィンテージギターが倉庫から出てきた驚きの反応もさることながら、思わず唸ってしまうのは先輩、デス・デビルのお姉さんがおでん屋で奢ってくれる場面である。

 オジサンには気色の悪い「ジュースにおでん」の馳走ではあるものの、この場は見事な雰囲気を醸している。五人の娘達には大先輩に対する畏敬があり、唯のギターを弄るお姉さんもそれなりの礼儀を持って他人の楽器に触れている。唯にギターを返す際の心配りといい、どことなくしおらしい五人組といい、この辺りの描きは、いかにもそれに携わっていた先輩と現役後輩による “味” ある情景であった。
 これらを見れば、現役高校生のバンド娘やギター小僧達にエールを送る作品には違いない。やってみなよ、面白いぞという作者の声が聞こえそうで、小難しい理屈は要らない、まずは楽しんでくれとばかりに思える。

 楽器を弄るのも面白そうだと、自分達でオリジナルな音を生む楽しさを中高生に広く紹介しただけでなく、楽曲そのものも驚くほど視聴者に受け入れられた。原作マンガだけではこうもいかず、アニメ作品にして“音”を得たメディアミックスの効果が「女子高生バンドのお話」をより鮮明に突き付ける出来に仕上がっている。
 元よりアニメ化構想と同時にこれは戦略として当然組み込むべき展開手段で、女の子達が素人バンドを楽しむ学園物語という、音売りに格好な題材である以上は、むしろその音楽性、現役中高生に向けてどこか素人臭さがあり文化祭の体育館を思わせる楽曲作りに重きが置かれて当然で、またそれが見事に功を奏した。

 事実、楽器店に足を運ぶ少女達が多くなり、ヴィンテージものの講釈をひとしきり垂れる女の子もいるそうで、楽器店のオジサンが苦笑いしながら頭を掻く様子が目に浮かぶ。秋山澪が使っていたのと同じヘッドフォンをくれと注文が殺到したらしいし、ある種の業界にはあなどれぬ反響ではあったろう。


 ヘビメタ女の苦悩を背負ったさわ子センセには作者の愛嬌がある。べつにその音楽性を掴まえてどうのこうの言う者もいないだろうに、「ああこの身が呪わしい」といった制御出来ぬ“血”の描きに魅せられる。「炎のエコロジー」などを歌うオバメタル・ライジングのオバサマ達もおそらく同様に違いない。そういえば、あのベーシストもレフティではなかったか。

 脚本の妙と言おうか、世代の描きが気に入ってしまう。特殊な部活とその先人達の足跡、デス・デビルの今のあり方は、お茶とスイーツな夢心地少女達に多大なインパクトを与える。色香も重量感もパワーも、女子高生達は大人の凄味を肌で知る。だがこのイケてるお姉様達は現役軽音部に鞭をくれるのでもなければその方向性に激怒するのでもない。元より軽音楽という甚だ広義な括りで存続する文化部だ。代々受け継がれる「部の理念」は、その時感じるままにヤりたいものをヤりたいようにヤる、という一条だけに違いない。

 脅されて顧問になったさわ子センセはステージ衣装のコーディネイトだけ押し付けはするが、彼女等の音楽性に口出しは一切しない。ライブハウスの先輩お姉さんも、おでん屋で奢ってくれたお姉さんも、ああこの子らが今の軽音部なのかと見るだけで、キャピキャピ路線はダメだハードにいけ、なんてことはひと言も口に出さない。実に淡々としたものである。この子達は自分らの音を楽しんでいるならそれでいい、と郷愁にも似た感覚で受け入れているように見える。あずにゃん一人を残して卒業する四人組も、部は今後どうあるべきだと言い残しはしない。梓の代は梓の趣くままにやってくれればいいのである。

 こういう継承のあり方は独特でもあるだろう。多くの部で聞かれる 「部の伝統」 なるものが仮にここにもあるとするならば、それは 「自由奔放」 なのか 「やりたい放題」 なのか。ただ、その世代のバンド名を当時の全校生徒達が知らないなどという事はないのだろう。その時輝いた軽音部バンドの名を生徒達の記憶に残していくのが案外伝統であるのかもしれない。

黒子の痛む手

 東京ゲームショウでは家庭用体感型で賑わっているそうだ。充分な広さのリビング空間を持つ御家庭なら適度な運動も出来よう。私のようにウサギ小屋に住んでいる連中ではたとえ子供にねだられたところで、そんなもの楽しめる場所がない。また、安普請のアパート暮らし環境だと「静かにしろ」と御近所から怒鳴り込まれそうではないか。跳んだりはねたりは面白かろうが、近所迷惑もいいところだ。
 リハビリ補助やお年寄りの体操にはいいだろう。勿論、派手な動きなどさせればかえって宜しくないので、それなりの映像を提供しなければならない。

 仮想空間で相手を殴り倒したりするのはあまり推奨できるものではない。相手に危害を加える行為は己の身も心もかなり痛みを伴う。しかも自分が攻め込まれたところで痛くも痒くもないのだから、仮想とはいえ、実に肩手落ちな不公平感覚だ。
 それがゲームというものだ、という声が聞こえてきそうだ。だが、バーチャルでそのような経験ばかりしていると相手の痛みも自分の痛みも無視する感性になってしまいやせぬか。ゲームが悪いとまでは言わないが、低年齢化の傾向にあるという対人暴力、器物破損は、その小学生の親達もゲームセンター世代ではないのか。

 友達と話したり一緒に何か共同作業を行うような行動よりは独りでゲームに興じていた方がいいとなれば、まず口下手になり表現力が低下し、どうせ本も読まないのだろうから相手を説得する粋なセリフのひとつも吐けなくなる。己の世界だけが全てとなり、少しでも遮るものあればヒステリックに喚き散らす。その状態は何か? 小中学生にして、はや認知症老人と同じなのである。こんな不幸な話はない。

 レールガンのアニメであったか、白井黒子が初春をひっぱたく。己を見失うな、戻ってこいというのだ。初春の横っ面を張った後、黒子は我が手の痛みに耐えている。実際は手の痛みなどではなく胸の痛みなのだ。あの一連の映像はよく出来ている。アニメという仮想の世界でもあのように痛みを伴う表現が可能なのだ。

 ゲームを作る側は認知症老人並みの子供達を生み出そうと考えてゲームを作っているのではない。第一、売れれば良しで後の影響など知ったことではない。刃物屋はそれを人に向けるなといちいち指導しながら包丁を売っているのではないのだ。使う側の知識と査定に我々は重きを置くべきではないだろうか。

イカ娘

 『イカ娘』 のTV放送も近くなった。折しも猛暑が終わり、秋台風の季節となり、スルメイカはぼちぼち終いではあるものの、冬場のヤリイカがこれまたいい。
 タコでもイカでも生きてるヤツを見ればあまり気色の良い生き物ではない。美味じゃ美味じゃと言いながらぐい呑み片手にこんなものを摘んでいるのかと思う。しかしこいつがあると一杯やらずには済まされない。スルメイカの耳(ヒレ)を好きである。コリコリした食感がいい。逆にモンゴウなどのもちもちした分厚いばかりな身はさほど喰いたくない。

 生で喰ったり焼いて喰ったり、衣を付けて揚げ物にしたり、イカというヤツはどのようにしても旨い。そのせいか、函館には遂にイカール星人までやってきた。人類への復讐だ。
 函館市の観光CMが評判だったため、今やイカール星人侵略物語なくして函館は語れぬほどで、その観光名所を巡っては 「ほうほう、これがあのときイカール星人にヤラれた建物か」 などと妙に感慨深い観光客もいることだろう。

 イカール星人は 「イカばっか喰いぁがって!」 と怒るらしいのだが、イカ娘は 「海を汚しぁがって!」 と湘南にやってくるらしい。人類に対する彼等の怒りには多少の違いがあるものの、イカが遂に憤怒の刃を抜いたのだとすれば面白いではないか。
 イカ娘などはスカート穿いて「イカにも」といった萌えキャラで、イカがわしさもないからウケるんでなイカい? などと、人々に好まれそうなこのキャラの放映を待っている。 勿論、清酒を呷りながら、テーブルの上では今宵もそれが酒の肴である。

ウィッチーズの正義

 アフリカの星・マルセイユまで登場したウィッチーズ。「アフリカの星」とは敬意と賞賛の称えだ。逆にハルトマンなどは「悪魔」と言われたのなら、それは友軍から戴いた二つ名ではなかろう。敵軍がそのように恐れたに他ならず、それだけえげつない程に強かったのだろう。ヤツに出くわしたのが我々の不運、という訳だ。

 押井守の「スカイ・クロラ」では人類に提供するゲーム戦として実弾の空中戦を行う。墜とされる機は操縦席もぶち抜かれ、敗者は瞬きする間に血飛沫と共に肉片となって宙に舞う。戦争を知らず兵役義務もない我々には想像でしかないが、例えば、20mm機関砲をもろに受けた場合、腕や頭など容易に吹っ飛んでしまうのではないか。一口に20mmと言うが、とんでもない大きさだ。その点、あれはかなりリアルな映像ではなかっただろうか。ちょっと目を背けたくなる。

 エーリカ・ハルトマンは実に愛くるしい。墜とす相手が訳の分からんネウロイという非人類故に罪深さもなければ悲惨な思いもない。懐かしのインベーダーゲームと遜色なく、見ている我々にとってはまことに都合がよい。愛らしき彼女が勲章ものの撃墜王だと聞かされても、ああそうなのか、それは凄いなと受け入れる。その数だけ人間を殺めたのではないからだ。

 人間同士の殺し合いをしているのではない、というのが正義なれば、これはパンツでもスクール水着でもない、“ ズボン ”なのであると主張して止まないのも作品の正義というものか。