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黒子の痛む手

 東京ゲームショウでは家庭用体感型で賑わっているそうだ。充分な広さのリビング空間を持つ御家庭なら適度な運動も出来よう。私のようにウサギ小屋に住んでいる連中ではたとえ子供にねだられたところで、そんなもの楽しめる場所がない。また、安普請のアパート暮らし環境だと「静かにしろ」と御近所から怒鳴り込まれそうではないか。跳んだりはねたりは面白かろうが、近所迷惑もいいところだ。
 リハビリ補助やお年寄りの体操にはいいだろう。勿論、派手な動きなどさせればかえって宜しくないので、それなりの映像を提供しなければならない。

 仮想空間で相手を殴り倒したりするのはあまり推奨できるものではない。相手に危害を加える行為は己の身も心もかなり痛みを伴う。しかも自分が攻め込まれたところで痛くも痒くもないのだから、仮想とはいえ、実に肩手落ちな不公平感覚だ。
 それがゲームというものだ、という声が聞こえてきそうだ。だが、バーチャルでそのような経験ばかりしていると相手の痛みも自分の痛みも無視する感性になってしまいやせぬか。ゲームが悪いとまでは言わないが、低年齢化の傾向にあるという対人暴力、器物破損は、その小学生の親達もゲームセンター世代ではないのか。

 友達と話したり一緒に何か共同作業を行うような行動よりは独りでゲームに興じていた方がいいとなれば、まず口下手になり表現力が低下し、どうせ本も読まないのだろうから相手を説得する粋なセリフのひとつも吐けなくなる。己の世界だけが全てとなり、少しでも遮るものあればヒステリックに喚き散らす。その状態は何か? 小中学生にして、はや認知症老人と同じなのである。こんな不幸な話はない。

 レールガンのアニメであったか、白井黒子が初春をひっぱたく。己を見失うな、戻ってこいというのだ。初春の横っ面を張った後、黒子は我が手の痛みに耐えている。実際は手の痛みなどではなく胸の痛みなのだ。あの一連の映像はよく出来ている。アニメという仮想の世界でもあのように痛みを伴う表現が可能なのだ。

 ゲームを作る側は認知症老人並みの子供達を生み出そうと考えてゲームを作っているのではない。第一、売れれば良しで後の影響など知ったことではない。刃物屋はそれを人に向けるなといちいち指導しながら包丁を売っているのではないのだ。使う側の知識と査定に我々は重きを置くべきではないだろうか。