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旧友との話に思う

 何年かぶりに小学校時代の友人と電話で話した。彼は住宅のリフォーム関係の仕事に従事しつつ自宅では蜜柑百姓でもある。年寄りの財布は堅く、自宅リフォームも一時期の熱さはない。仕事は蜜柑百姓が8割だと言う。TV番組で一時人気を博した匠のリフォームなんていうのはごく一部の夢物語にしか思えず、加えて政治の愚行が続く世では年寄りも銭をはたかない。我が家を改装したいという老人は少ない。かといって若夫婦に資金力はなく、子ども手当をくれるのなら生活費に回すのが関の山だ。

 山椒は蜜柑の部類である。よって、そこに群がる害虫も似通っているから旧友とはおのずと話が通じる。地球温暖化の話にも及び、相手が目の前で飲んでいるかのような錯覚に陥る程に話は長くなる。
 カラスが大挙やってくるのが最も困るらしい。沈没寸前の旧海軍戦艦に押し寄せるグラマンの如く、打つ手無しの喰われ状況だと嘆く。人間の軍隊に引けを取らぬ作戦行動を彼等は持っていると力説する。それだけではない、イノシシも畑をほじくり回し、タヌキやアライグマはやりたい放題。けっこう沢山作っているらしい柿も今年は色付く前にサルの群れがやってきて全滅状態だそうである。その土地に根付いた百姓の営みを根本的に考え直さねばならないと言う。

 お前の処は鹿が来ないだけそれだけでもマシだろうと言ってやった。あれが来ると葉モノは若いうちにみなイカれてしまう。菜っ葉が一部工場生産され始めているように、いよいよその他の山間百姓はドームでも作って月面基地のコロニーのような農業を強いられそうだなと互いに笑った。

 おそらくこれらは地球規模の原因である。しかし、エルニーニョがどうたら二酸化炭素濃度がどうたら言うのは土を触ったこともない学者の話で、現場の百姓はその季節に吹く風が来ないとか、降るべき雪や雨がおかしいという蓄積された経験感覚で異常を感じ取っている。相変わらずの米国を始め、中国やインドが急激な近代化に伴い汚染物質を放出しまくるのであれば、地球も二次曲線並の気候異変は加速の一途で、特に農林水産の第一次産業は更なる過酷な環境試練に向かわざるを得なくなるだろう。

 百姓は平地の大規模農家だけ残れば良し、僻地山間部は捨てればいいというのも一案だ。農水省の政策はその方向であるように思う。対外的な戦闘能力を底上げするにはそれもあろう。だが、大規模効率重視というだけではあの広い国土を持つ北米、ユーラシア、オーストラリアの各大陸を相手どった勝負にはなるまい。我が国の大規模農業とは桁が違い過ぎるではないか。単なる食料でなく投資対象でもあり、なんたらメジャーなどというロクでもないのが多々蠢く世の中でもあるのだ。
 値が安いという経済観念だけで消費者は動いていまい。我が町にも産地直売場がある。休日は大都市ナンバーのクルマが鮨詰めだ。いくら休日高速料金が安いとはいえ、早朝からガソリン炊いて遠方まで買いに行き戻る全経費を考えれば、疲労も考慮に入れてひとかたならぬ消費量になる。それでもまともな、安心できるものを喰いたいのである。昔ながらの味を求める傾向もある。

 世界はその民人の趣向と異なり、何かはき違えていそうな気がする。大英帝国が始めた大量生産コストダウンの思想は世界の工業を今日にまで至らしめた。しかし今の世をよくよく見てみれば全く中身のない物のやりとりに思えてしょうがない。つまりは実際そのものに手を触れた事もない者によって値も流通経路も品質管理も左右されるのだ。こんな世界はおかしい。資本主義社会の道程とはかくなるものであるのか。