記事一覧

ベルルスコーニ

 天皇陛下はさかな君を称えてくれたが、ローマ法王庁はベルルスコーニ首相に 「おまえさん、いいかげんにしなさいよ」 と苦言を呈した。
 17歳の女の子を買ったとか買わないだとか、この首相には色事スキャンダルが絶えないようで、我が国のトップと同様に 「こりゃアカン」 などとイタリア国民から言われているのだろうか。

 しかしあの国ではこういったスキャンダルに対し、日本ではちょっと考えられない寛容さがあるように思う。自民党の宇野首相は神楽坂芸者との写真が憶測を呼び、その指の仕草がどうたらで、あっという間に総理大臣の一大セックススキャンダルだと燃え広がり、気の毒にも三ヶ月と保たなかった。権力争いの中である故に事の真相ははっきりしていないが、我が国では要人にとってそういう色事スキャンダルは一発で絶望的だと言えるだろう。

 イタリアの男は女性にマメったく、情熱的なセリフを駆使してはやたら口説きまくるというイメージがあちこちにあって、よく漫画などで風刺される。それで言えば絵に描いたようなイタリア男でありそうなこの首相、常にセックススキャンダルを伴いながら長い年月をトップの座に君臨し続けているのだから、男とはそういうものなのだと国民が見ているのだろうか。まさかそれはないだろう。

 カネもあり権力も手中にした。故に、降ろしたければ私を降ろせばいいではないかと豪語するかに見える。少しねじくれた見方をすれば、軽薄な成金オヤジに見えないこともない。幾多の風評からは少なくとも女性にはあまりウケそうでない首相ではないか。

鶴の復活

 日航が紅い鶴丸のマークを復活させる。個人の趣味としてはその方が好きである。腐っても日航なのだから昔ながらの鶴丸がいい。ボーイングの727を日航が就航させた際、橋幸夫と吉永小百合が歌まで歌っていたではないか。当時の国民はあの機体の鶴丸に憧れたのではないのか。(えらい古い話だな)

 「トップをねらえ!」 ではおねえさまとノリコが宇宙に向かうに、日航の鶴丸マーク機で飛び立つのだ。あれが妙ちくりんな太陽マークでは洒落にならないだろう。思えば、庵野秀明他スタッフには先見の妙があった。というよりも、日本の航空は日航であるべきで鶴マークであるべきだということだったのだろう。もっとも、このアニメが作られたのは90年以前だったろうから、ヤバくなって経営統合の上に妙ちくりんな太陽マークになってしまうなどとは夢にも思わなかったに違いない。なにせ 「親方日の丸」 の未来に雲ひとつありはしないと信じ込まれていた時代なのだ。

 航空行政の利権喰いと木っ端公務員根性が現在の腐れ状態を招いてしまったが、鶴の復活だけは悪いことでない。御旗のもとに真面目に商売に励んで精進せい。首切りも仕方ないが、安全管理も鑑み、現場からはなるべく抑え、タダメシ喰らいで生産性のない天下りの年寄りを片っ端から放り出せ。

就職

 日が落ちると冷える。冬なのだから当たり前だ。熱めの湯船に茹だるほど浸かって、風呂上がりに燗酒をヤる。どうせ安い酒だ、温もりゃあいい、というのでグビグビ呷る。

 ニュースでは大卒の就職内定率が極めて悪いと報じている。一方、企業では外国人採用を増やしているのだと言っている。海外進出に向けた即戦力になり得るという選択だ。それだけ企業の目は日本人卒業生に対しては厳しい。単にそのまま外国語が使える即戦力というだけではなさそうだ。その人の活力、やる気概にも平均的な違いがあるのではないだろうか。

 無論、大学生も様々だろうし、こいつはいいという人材も多かろう。よく解らないが、その本人の能力、人間力に於いてけっこう格差が大きくなっているのかもしれない。それは大学で何をしてきたのかにもよるだろうし、幼い頃からの家庭環境にもよるだろう。
 企業が食指を伸ばさないというのは食わず嫌いなのではない。喰ってみて「こりゃかなわん」という思いをすれば、次からは「要らない」と言う。ここ何年間かに亘って味わってみた判断に違いない。先輩連中がろくでもないから企業の門戸が閉ざされるのだと、一概にそれだけではないにしても、何年間かの傾向というものを企業は掴んでいる筈だ。

 学校出たのに思い通りに贅沢な就職が出来ないという状況は確かに気の毒には思うが、選り好みもさほど出来ぬ世の中である事実も少しアタマの片隅に置いておくべきではないのか。世の中は自分中心に回っているのではないのだし、フリーターやりながら西村さんのように芥川賞でも狙える才も持ち合わせてはいまい。先行き見えぬ世界情勢故、大樹の陰に寄りたいのは解るものの、何かしらで喰ってゆかねば何も始まらないだろう。

黙っちゃいやせんぜ

 少子高齢化にて先の年金等社会保障は行き詰まる。それは国民の誰もが解っている。国も企業も門外不出たるべきその技術をやりたい放題海外へタダでくれてやっている現状では話にならず、加えて甘ったるい現行法制下では外国スパイ様の天国である。更には国民以外にも参政権を与えようというアッパラパーな動きには、グローバル展開と国家維持の意味すら解していないと思われ、愚劣にして稚拙の極み。

 消費税増税はそれは必要だろう。頭でっかちな一本脚状態が更に厳しくなる人口体型だ。消費税を上げねばならんのは誰もが承知。その前にまず国民がやれという政策があるだろうと怒っているのだ。
 今のままでは増税された分、国民に戻ってきそうでないと踏んでいるから国民の怒りは静まらないのだ。まずお前達議員報酬というものから率先して2割なり3割なり切ってみよ。続いて公務員人件費も同等に切り捨てる。天下り団体もことごとく潰してしまい、ハローワークへ行かせりゃいいのだ、話はそれからではないか、と言っているのだ。

 政府も役人も国民に全く信用をなくしてしまった今、そこらから意思表示せねば国民は許すまい。

思えば多才 細川俊之

「プラタナス並木の木漏れ日があなたを優しく包む午後のひと時・・・
 いかがお過ごしでしょうか、細川俊之です・・・」

 というような語り口で始められるラジオ番組が好評で、その二枚目の甘いトーンがとりわけ大人の女性を虜にした。当該番組冒頭の語り掛けを聞くだけでジワッと潤んだという女性ファンは少なくなかった。大袈裟に言えば、声だけで女性をイカせられそうな、少し危険な誘惑感を含む魅力。もうあのようなラジオ番組は二度と作れまい。

 「一条家の使いで参りました」 という決めゼリフでタコ八郎と絶妙な可笑しさも見せてくれた。あのTVドラマでは途中から主役連中を喰ってしまっていた。細川俊之とタコ八郎の凸凹コンビが玄関にいつ現れるのかと、視聴者は心待ちにしたものだ。

 思えば多才。それだけ人知れぬ努力もされたことだろう。 心に残る名優に哀悼の意を表したい。

報道の馬鹿っぷり

 人気者の有名税にしては気の毒な気がする日ハム・斎藤投手。一歩外に踏み出ればわいのわいのと報道関係者が押し寄せて、少しでも本人に近い好ポジションの奪い合いだ。

 愛知のある祭りでは一人の素っ裸男が 「神男」 として登場する。フンドシだけの裸男達の群衆に身を投じ、神社の然るべき場所まで辿り着かねばならないのだが、なにせ素っ裸の神聖なる神男なのだから、群衆を形成する男達は厄落としのためにその主役の身体に触れなければならない。我も我もと素っ裸男の壮絶な奪い合いである。もみくちゃにされ引き回され、頭髪も陰毛も剃っておかねば引き毟られてしまう。傷だらけになり、辿り着いた時には半死半生だ。

 斎藤投手に群がる報道陣やファンを見ているとあの祭り映像が脳裏に浮かんだ。今朝は何時に起きたのですか? 朝食は? やれやれ、歩きながらのそのインタビューは何なのだ。何時に起きて何を喰おうが余計なお世話だ。そのうち、トイレには何分間座っていたのですか? なんて訊かれそうだ。そんな事がプロの合同自主トレに何の関係がある。誰もお前さん達に健康管理なんぞ頼んじゃいない。

 大分だかどこだかではランドセル寄贈に現れたタイガーマスクを追っ掛ける。ちょっと待て、仮面被ったその男性は善意で素性を明かさず訪れているのだぞ。走り去る男性の後ろをカメラ担いで追っ掛ける。馬鹿じゃないのかお前等は。善意の志が輪となって広がる中に、お前達の行為はそれを阻害する以外のなにものでもない。

タイガーマスク

 自分は自他共に認めるトラキチであるからして、世間で話題のランドセル・タイガーマスクの一人は何を隠そうこの私であると言いたいところながら、自分はそこまで人間がデキていない。情け無い性根は己が最もよく知っている。

 名も告げぬこのランドセル提供の連鎖を考えるに、にっちもさっちも出口無しな世情を憂える庶民感情があるのではないのか。このような国状が続く限り、弱者即ち恵み薄き者への荷重が更に増す一方だという叫びであり、国のやり方は弱者救済などと謳い文句ばかりで、その実は政治屋共の選挙票田に向けた税金バラマキでしかないと踏んだ上での現象に思える。少しは国民の事を考えたらどうなのだという厳しい叱りでもありそうだ。

 仕事に就けるだけマシではないかと思える世の中に、耐える苦みを嫌い不平不満の挙げ句に職が無いと嘆き、自分だけが不幸だと喚く者多く、企業は大陸進出以外に道は無しと本国の未来なんぞどうなろうがお構い無し。政治屋は政局の押し退きにしか動かず、その間に山林原野は中国人や怪しげな不動産屋に次々と買い取られる始末。気が付けば丸裸、ああ何も無くなってしまった被占領国家である。

 人心乱れて異常犯罪も多発。親は愛しむべき我が子を平然と殺し、子は敬愛すべき親を殺め、たとえ殺さずとも親の死に弔いもせず押し入れに放置しては年金を騙し取る鬼畜の所業。誇れる我が国の道徳観はどこへ行ってしまったのかと嘆き始めて久しいが、あまりにも目に余る惨状ではないか。これでは国土を乗っ取られるのも頷けようというものだ。

 今の中国に見る如く、我が国の高度成長時代も上を向いた上昇志向だけが美徳であった。それに乗れないヤツは要らない競争である。勿論、それ無くして今の我が国は無い。良い意味で切磋琢磨、悪く言えば精鋭と愚鈍の差別化だ。
 それはそれで良かったのだと自分は思っている。己の能力を向上させようと努めるのでもなく、能ある者に縋って生きようと利己画策ばかりな愚か者共を擁護する必要など全くない。残念ながら、掃きだめとまでは言わぬが、公務員にその手の馬鹿者が多くなったのは否定できぬところで、公僕という職が受け皿になったのであれば、敗戦国日本は取り返しの付かぬ歴史を歩んできたのだと言わざるを得ない。

 そんな世であるが故、タイガーマスクを名乗る慈善連鎖は富豪や一時成金等だけによる酔狂には思えない。やれ大型3Dテレビだエコカーだ、それ買えやれ買えのモノ所有を煽るしかない世界にあって、貴様達も少しは広く見渡してみたらどうなのだという警鐘にも感じ取れる。
 デキる者も愚か者も、家庭や国家などの環境が己を土俵に上げてくれただけ幸せだと振り返るべきだろう。世の中にはそこに上がりたくとも上がれぬ人々も多くいるのである。

市議会解散是非の住民投票

 2月6日には名古屋市議会解散の是非を問う住民投票が行われるそうで、同20日には鹿児島県阿久根市でも同じ住民投票が予定されているとのこと。いずれも強気の市長が火を付けた出来事だ。
 面白いのは、政権与党の剛腕と評判高い小沢元代表がマスコミに叩かれるのに対し、強引さでは引けを取らぬと思われる双方の市長はどちらかといえば好意的に報じられている点だ。 また名古屋市長の支持率は高いらしいし、そこまでやるのかと言われた阿久根市長も堂々たる再選市長である。

 これは何なのかと思う。議会は市民の代表ではなくなっているという事なのだろうか。単純にそうは考えたくないが、地方議員及びその選挙に対する意義に重みが感じられないのではないだろうか。地方議会は地元経済界と行政に深く結びついている。それは一蓮托生と言うより持ちつ持たれつの関係なので、おのずと利権はそこに生まれ、我が身の不利益になることは一切排除を貫いてきた。議員候補も殆どそのようなシステムの中で擁立される。それが解っているから地方議員選挙の投票率は伸びない。何も変わらないと、有権者は腑抜け、投票所に行く意欲すらないのである。

 そこに登場した派手な市長は煙たがられながらも、“我が世の春” を謳歌し続ける議会に真っ向から物申したのだから、市民は 「こいつは何かやりそうだ」 と感じたのではないだろうか。市民も市政に対して直接働きかける可能性を見出したかのようにも思える。

 こういった現象の根幹は、銭がない銭がないと言うならばまずお前達の啜っている甘い汁をやめろ、という市民意識だろう。阿久根市長が公務員の給料実態を流しまくったのもひとつの顕れだ。本来、国政も真っ先に議員報酬と公務員人件費大幅カットを断行せねばならぬところ、政局第一で騒いだまま消費税増税へとまっしぐらで、能無しマスコミも何を恐れてか議員報酬や公務員人件費カットには一切言及しない。御用達報道機関と卑下されてもしかたなかろう。

誰が判定する

 こんなものは我が子に見せたくないという心情はごもっとも。都議会本会議で可決成立した性描写規制の改正案に当然であるとする人は多かろう。
 だが、ヤマなしオチなし意味もなしのいわゆるエロマンガに括り込まれる作品の中には、どうしてこれがそのようなレッテルを貼られねばならんのかというのも、かなり出てきそうな懸念がある。強姦、近親相姦などはダメということらしいが、その「著しく不当に賛美・誇張」の判定は個々の感受によるもので、基準がないだろう。そうなるとどなたが裁きを申し渡すのだろうか。慎重な運用をするのだそうだが、「運用」というヤツはこれまた玉虫色の都合いい表現で、役所の伝統的お家芸でもある。

 例えば体制批判的な物語や時の権力愚行を風刺した作品があるとしよう。その中に強姦場面がひとつあればそれを摘み上げてエロ本コーナーの片隅に追いやり、当該作品の封殺に繋げることも不可能ではない。まことに都合悪いのでとりあえず婦女暴行で引っ張っておけとしたウィキリークス親玉への対処と同じである。丁度その辺りをウロウロしていたので人質にしてしまえとした中国共産党の日本人拘束騒ぎも似たようなものだ。権力の滑稽なまでの慌てぶりが無様でもある。

 権力争いや言論封殺に於いて色事沙汰に侮辱して貶めるやり口は昔からの常套手段だ。その点、人民は愚かでしかなく、色事スキャンダルとなれば飛び付き、能無しマスコミは見事なまでに食い付く。倫理から外れた下劣な色事は世のなにものよりも罪深いという性的羞恥心を操った人心扇動の大いなる武器である。

 エロ本を隔離しようとする試みは理解できる。不謹慎かもしれないが、思春期の少年達にとってそれは少なからずお宝なれば、安易に手中に出来ない方が神聖さも保てようというものだ。 ただ、いかに策を弄しようとも御禁制としての成果はさほど期待できそうにない。ネット上のクリック一発でとんでもない動画がいとも簡単に現れる世の中であることを再度認識しておかねばならない。

 強姦だの近親相姦だのと聞けば誰の眉間にも皺が寄る。制限条例としては効果的な忌むべき語句ではある。そのようなマンガやアニメがどれだけ氾濫しているのか事細かに調べた人もいないにせよ、放置も出来ぬとするからには相応目に余る状況なのだろう。
 その手の性描写の描画頻度や度合いはグラデーションのようなもので、その一線で白黒分割出来るものではない。判定する者も難しい作業に向き合わねばならない。なにせ 「これはしょうもないエロマンガである」 とレッテルを貼ってしまうのだから。

電子書籍

 どうにも世の中は鈍感で時代遅れな感覚だと感じざるを得ない。電子書籍端末がまたまた新たに登場だとニュースで取り上げられるのはともかく、有名作家の作品にBGMを付けるだのイメージ映像を組み込むだのと、UFOにでも出くわしたかのように大袈裟なパフォーマンス報道には幻滅の至り。

 考えてもみよ、デジタルノベルというやつは遙か10年以上前既に氾濫していたではないか。シミュレーションゲームから派生した素人作のそれは一端のシロモノだった。幾多のアマチュア作家達は物語を練り上げ、自分で絵を描き、自分でBGMまで添えるクリエイターだった。今更電子書籍に驚く輩の気が知れない。
 この自分でさえそう思うのだから、ゲーム愛好家の人々から見れば、何をそんなに騒ぐのかという感覚ではないだろうか。ストーリーを持ち、登場人物達がキャラ立ちし、感動に泣かせもするゲームは掃いて捨てるほど積み上がっている。彼等にとってそれらは売れっ子小説家の書く物語に対してどれほど遜色があるだろうか。

 かつて Microsoft のOSが Win95 になってようやく Mac と併走出来る操作性だと思えたように、出版界もやっとこさここまでになったのかなという思いはある。確かに端末の処理能力、ネット速度の向上あってこその今には違いない。 それでも、紙媒体以外で書を読む行為にそこまで芝居じみた驚異の表現をせずともよいではないかと、アタマの後ろをポリポリ掻いてしまうのだ。