大相撲の八百長騒ぎは、やくみつるの所見あたりがもっともらしく聞こえる。つまり相撲界の体質もタニマチも相撲ファンもみな同罪、おそらくそんなところだろうと踏んでおきながら黙認してきたツケであるという訳だ。
その背景には 「みながみなそうではなかろう」 という腐食度合いの過小評価と、「そりゃまぁそんなこともあるだろうよ」 と波風立てるのを嫌う放任姿勢がある。日本人に限った性質ではなく、政治屋や役人の贈収賄が絶えぬ現状からでも判るように、人類社会の 「まぁまぁ堅いこと言いなさんな」 的展開なのだ。
同じ興行でもプロレスというやつは早くからショーの要素が浸透し、人々はそれを承知の上で熱狂した。反則だらけのヒールにひどい目に遭わされ、這々の体で逃げ戻る吉村道明からタッチ交代した千両役者・力道山が悪役白人をやっつけるという、極めて単純明快なストーリーが高度成長への国民意欲を後押しもした。家庭のテレビ普及は大相撲、プロ野球と共にプロレスの存在抜きには語れまい。
プロレスが欧米のショー的要素を上手く時代に合わせたものであったのに対し、相撲は国技とされていて、神前に奉納される神聖且つ冒さざるべき祀り事、神事儀礼に相当するという概念を強いていた。そういう土台がプロレスとはあまりに違う。
それ故、人々が敢えて口の端にもしなかった裏側の汚点が表に出されると、それは俄に 「忌むべき部分」 となる。薄々感じてはいたものの、相撲ファンはその下劣な汚さをあからさまに見せて欲しくはないのである。見たいのは表舞台、花形役者の名演なので、楽屋で尻をボリボリ掻きながら鼻の穴ほじってる姿なんぞ見たくはないのである。
裏ではそうなのかもしれないと漠然たる暗さを感じつつも、それを表立って知らされてしまったのでは相撲ファンの懐く嫌悪感は甚だ大きいだろう。蓋をしたまま見えぬ処で上手く掃除してくれるならまだしも、確たる証拠と共に目の前に突き出された事実への歯痒さや、やはりそうだったのかと崩れ落ちる偶像、もはや後戻りできぬ失望の鬱に、怒りの矛先は相撲界へと向けるしかないのである。
理事になった貴乃花という若い親方が言っていたように、タニマチに囲まれ、何でもごっつぁんな在り方に問題もあるのだろう。ついでに星勘定も互助会形式で、という訳だ。競い合う勝負師であるべき相撲取りが労働組合ごっこでは話になるまい。
新聞屋の親玉はじめ各業界の重鎮達が絡んでいる筈だから、協会そのものを路頭に迷わせるまではしないと思われる。国民のための国技という象徴的側面もあり、天皇杯も内閣総理大臣杯も、天覧相撲という面もある。ただ、それも今後発覚する規模にもよる。膿を出し切れと言われるが、どこまで出していいものか、国民に植え付けてきた格式と伝統というものが自浄行為と天秤に掛けられるであろう事は想像に難くない。