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昭和を描いて

 最近目立つ 「昭和の時代」。 それも昭和30年代ぐらいの古さだ。 「三丁目の夕陽」 は変わらぬ人気だし、去年の劇場アニメでは 「コクリコ坂から」 が最も観客を集めた。 TVアニメでは 「昭和物語」、実写ドラマの 「とんび」 なんていうのもあった。
 もはや戦後ではない、と言われたのは敗戦から10年ほど経った頃。 焼け野原の占領下から徐々に立ち上がり、もの作りニッポンが本格始動した時代。 やがてオリンピックへ、そして万博へと、高度成長する中で暮らしが中流意識に包まれ、比例して汚染公害もひどくなっていった。


 あの頃は良かった・・・・と、ノスタルジックな現実逃避に走りたがるオヤジ共がひとときの安息を楽しむのか。 みな均等に貧しかった故の連帯感が懐かしく思えるのか。 なにより、先に向けての希望があったというのだろうか。 上昇一途な未来を誰もが信じていた時代だったのだろうか。
 ならば、お先真っ暗にしか思えない今、あの頃の国民のバイタリティな意識を取り戻したい戦後昭和回顧なのか。 昨年の忌まわしい震災と原発事故の混乱は米軍による本土絨毯爆撃と原爆投下された無差別大量殺戮、避難の田舎疎開という悲しい歴史を蘇らせるからか。
 そう考えれば、仕掛けた連中がいるいないに関わらず、ブームのようなこの傾向は我らの復興を鼓舞せんとする日本社会の自然治癒作用のひとつであるかのようにも思えてくる。

 だがしかし、80年代の狂乱バブルに浮かれていた頃、西岸良平の 「夕焼けの詩」 は連載開始からかなりの年数を経て既に多くの読者を虜にしていたし、「となりのトトロ」 はバブル真っ直中辺りではなかったか。 エスメロードばりなボディコン・ミニスカートで妙ちくりんな扇子を手にお立ち台で阿呆踊りを夜な夜な繰り広げていた時代、昭和30年代への郷愁は少なからず既にあったということだ。

 バブルだ円高だという経済面の異常さが活力を削いでいるというよりは、人が織りなす社会変化への戸惑いと、ある種の失望感に思える。 あの頃は良かったと口端に出すのが爺さん達ならまだしも、若い人々でさえ過去ばかり振り返りがちな状況は、決して健康な社会ではない。

 今の政治と公務員の体質を見る限り、崩壊前の旧ソ連が想い出される。 ソビエト共産党を中心に仕事をせず、働かずに暮らしたいという腐食の極み。 蔓延していた汚職、賄賂の腐敗構造も、現代日本の地方公務員採用過程を見ればそのままあてはまる。 裏金もコネも使わず試験や面接だけで採用された者は1割もあるのだろうか。
 腐りきった毒素の空気は民間の域までを蝕み、公務員は身分保障と特権で仕事せず、民間人はバラマキ餌に飼い慣らされて仕事せず、国家がなんとかしてくれて当たり前だと考えるようになってしまった。 結果、何が生じたかといえば、他人のフンドシばかりアテにするラリった麻薬中毒患者の如き退廃の虚脱感。 もはや認知症老人を嘆くことすら出来まい。

 ゆとり教育だのと称した手抜き教育、教育義務の放棄に走る傍ら、株価の読み方と投資で儲ける方法を小学校の特別授業で教える始末。 汗をかく奴は馬鹿だと言わぬばかりに我が子の将来は一にも二にも身分保障された親方日の丸な公務員。 後は天下りと渡りで安泰の老後余生。 子らの将来に託す夢がそれでは、向上心も広い視野も備わりはしない。
 最近の子供は耐えることが出来ない、我慢という性根がない、などと学者がエラソーに宣っているが、何をほざいているのか。 我慢して耐え忍ぶ事の出来ないのは大人達ではないか。 それが出来るくらいなら安易に騙したり盗んだり殺めたりの犯罪に走りはしない。 震災の火事場泥棒などは畜生以下だ。 利己の欲望だけに染まり、人様が見ていなければ何をやっても許される、あとは知らぬ存ぜぬで責任とらず逃げおおせるというのは、中央政治、行政省庁からして率先行為に及んでいる悪徳ではないか。 西の大陸、一党独裁の言論弾圧国家の傍若無人なあさましさを蔑むことなど出来ようか。

 そんな虫ずの走るような世の中ながら、かといって昭和の時代を数多く描いたところで、それを鑑賞した人々が容易に何かを変えられるとは思えず、アニメに於けるメイド衣装キャラの如く乱発して、多くの視線を集められるわけでもない。
 ただ、先人達がそういう時代を作り、そこを懸命に生きてきた事実は今、再認識する必要があるだろう。 当時の人々と今の我々ではあまりに環境が違いすぎるものの、打ちひしがれた無力感の克服に於いて通じるところあるようにも思う。 くれぐれも、解っていてもらいたい。 あの頃は良かった・・・的な老人の懐古に終わるだけでは我らの歴史、先人達の残せし遺産にはならないということを。