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けいおん! は講堂こそが檜舞台

 第20話のラストステージでは娘達が喜びを爆発させる。ド派手なフラッシュも虹色のスポットライトもない校内の講堂。PAもなければスモークも焚けない質素なその場所だが、彼女等には集大成の檜舞台である。やはり作品中の大きな見せ場には違いない。本編中のこういうシーンがそのまま楽曲のPVにもなり得るのはそういう物語であるからだ。他のアニメ作品がまったく脈絡なくこれを真似たところで何の効果もない。

 それにしても、学園祭ライブという小さな世界をこれほどの大舞台として楽しく持ち上げた作品の功績は、称えられて然るべきだろう。高校時代の文化祭では毎年そんなのやっていたな、と大人達は思い出す程度かもしれないが、この時のこの娘達にとっては武道館にも夏フェスにも匹敵する意味を持つ。

 彼女等はプロを目指しているのではなく、メジャーになりたい野心を持つのでもない。学校という閉鎖的世界から飛び出せば夢も可能性も広がるであろう事を直感的に知ることは出来ても、今の自分達にはそんな必要はないと、あえてそれに背を向ける。今の状態がなぜ快適であるのかを彼女等は本能的に知っている。
 春の海ひねもすのたりのたりかな、日々怠惰にマイペースが許される部活環境を構築し、身体が欲してきたらようやく腰を上げて練習でもするかというスタイルだ。傷付き血と汗とヘドにまみれながら必死に這い上がろうとする根性物語とは無縁である。部室に集まればまずお茶だ。細かな規則も縛りもなく、気の合う仲間と好きな音作りが出来る。こんな素晴らしい文化部はない。

 それでも自分達の主張が出来る場は必要で、それが学園祭ライブなのだ。自分達はこういう高校生活を送ってきた、どうだ見てくれと胸を張る。なにやら芸能界バンドの解散コンサートのようにも思えてくるが、そこはアマチュアの部活。売らねば喰っていけなかったなどという「背中の荷物」は何もない。楽しめたかどうか、輝けたかどうか、だけでいいのである。



 第1期の放映が始まる前からして、これはウケるだろうという思いがあった。京アニが女子高生のバンド活動モノをやるぞとくれば、なるほどハルヒの学園祭ステージが得た好評とは無縁でなかろうと誰もが考える。
 期待を裏切ることなく、娘達が楽器を持ち寄り “部活” という名目で軽音コンボを組み上げて楽しむ様子は、同年代中高生のみならずオジサン、オバサンの間でも絶大な人気を博した。
 それは60年代にエレキギターコンボスタイルが我が国に流入定着して以来、世代を貫いて不変である「自分達でヤる楽しさ」なのだろう。そこには小難しい理論講釈もなければ英才教育もない。最初にありきは仲間内で音を合わせる楽しさだ。

 ジェフ・ベック、ジミー・ペイジだのキース・ムーンだのが彼女等の口から語られる。秋山澪や田井中律にとっては爺さんか曾爺さんである。それらは伝説的に語り継がれ、また当時の音もデジタル化でいくらかは容易に手に入る。
 子供達は今世の音が嫌いなわけではない。親父や爺さん達が熱っぽく語る古き良き時代への興味もあろうし、裾野がこれだけ広がりを見せ、多種多様な音が飛び交う現代では、その道の先駆者たる存在のプレーヤーは出現しにくい。当時は開拓的な時代だけにかくなる強者がゴロゴロしており、今や伝説化したロマンがあるのだろう。それらの名は世代を継いで記憶に残されていく。

 映画 『スクール・オブ・ロック』 の主人公はカネに窮したロッカーだ。ニセモノ教師で学校に潜り込み、小学生相手にロックを教える。ギターを肩に掛け、彼は黒板にロックの成り立ち、枝分かれ系譜をぎっしりと書き詰める。大変なものである。こんなヤツ、本当にいそうだなと思わせる “ロック熱” が教壇から発散される。
 原作マンガには縁遠いので知る由もないが、「けいおん!」の作者はここまでやる人でもなかろう。しかし熱さは感じられるではないか。それが大人達にもウケる。虫も殺さぬ面立ちのお嬢ちゃん達からジェフ・ベックだなんだと語られたのでは、日頃ノルマに気難しいツラのオヤジ達もニンマリせざるを得ない。



 タイトル通り、あくまでも学園内の部活にとどめているのが特徴で、作品は学園アニメの域を外さない。「めざせ武道館」「いつかはこの夏フェスに」といったセリフは聞けるものの、彼女等が輝くのは他ならぬ学園祭の講堂ステージである。その場の楽しさ最優先という校内バンドならではの肩の軽い奔放さに、プロの凄味も職業としての苦悩もそこに見ることはない。一応部活ではありながら、音楽準備室に高価なティーセットを持ち込んでは毎日お茶とスイーツの放課後ティータイム。帰り道にたむろするお店を校内に設けているようなものだ。誰が見てもおよそ学校の部活とは言い難い。同年代の少女達から見れば、これで部費分配があって好き放題ドンチャカ出来るなら羨ましい限りだろう。

 高校生バンドのマンガは幾つか目にしたことがある。バンド小僧イコール不良少年という迷惑なイメージが長く消えずに存在するためか、大抵の作品は夜のライブハウスなどがメインで、タバコも吸えば酒も喰らう登場人物が多い。実際、夜間のステージでバイトなどしていれば大概そうなってしまう。そのノリがポップでよいではないかと思ったのは佐藤宏之の「気分はグルービー」で、作者独特の心理描写も好きだった。

 「放課後ティータイム」はそれらいわゆる大人との狭間にある硬派バンドでもなければ、世間様から蔑視されるような素行不良レッテルの娘達ではない。まったく純朴なる少女達で構成される超軟派な学園バンドである。
 第1期の番外編ではライブハウスデビューも果たす。「初々しいお客さん」扱いではあるというものの、そこで出会う他のバンド連中はみな親切で暖かな眼差しを向けてくれる。学校の制服であるからまだしも、さわ子センセのキャピキャピ衣装だったなら周囲があれだけ暖かかったか、いささか案じられるところではあるが。

 高校生ともなれば社会の汚い部分にある程度接するものだろうに、そのような要素を一切除いた純粋さと清潔感がまず受け入れられる。憎たらしい嫌味なキャラやゼニカネの理屈に歪んだ大人など端役にも登場させない。原作が明るく楽しい四コマ漫画とはいえ、こういう理想の学園像が好まれる社会の傾向は喜ばしい。「まなびストレート」も然りだが、学校は楽しいところなのだ、自分達の気の持ちようで高校生活はかようにも素晴らしいと主張する。文科省は作品に感謝状のひとつも進呈してよかろう。

 作者が今でもバンドを楽しんでいるのかどうか知るところではない。少なくともそういう経験を伝えたい意志を持つのだろう。それを汲んだかのようなアニメスタッフのきめ細かさが随所に窺える作品でもある。
 楽器類の徹底した描き込みは言うに及ばず、たまには違う楽器を弄ってみたがる本能や、期末試験対策に勉強しようとしてもついついギターに手を伸ばしてしまう平沢唯の頷ける行動。初めてライブハウスに出た際の一連の準備であるとか、さわ子センセ所有だったヴィンテージギターが倉庫から出てきた驚きの反応もさることながら、思わず唸ってしまうのは先輩、デス・デビルのお姉さんがおでん屋で奢ってくれる場面である。

 オジサンには気色の悪い「ジュースにおでん」の馳走ではあるものの、この場は見事な雰囲気を醸している。五人の娘達には大先輩に対する畏敬があり、唯のギターを弄るお姉さんもそれなりの礼儀を持って他人の楽器に触れている。唯にギターを返す際の心配りといい、どことなくしおらしい五人組といい、この辺りの描きは、いかにもそれに携わっていた先輩と現役後輩による “味” ある情景であった。
 これらを見れば、現役高校生のバンド娘やギター小僧達にエールを送る作品には違いない。やってみなよ、面白いぞという作者の声が聞こえそうで、小難しい理屈は要らない、まずは楽しんでくれとばかりに思える。

 楽器を弄るのも面白そうだと、自分達でオリジナルな音を生む楽しさを中高生に広く紹介しただけでなく、楽曲そのものも驚くほど視聴者に受け入れられた。原作マンガだけではこうもいかず、アニメ作品にして“音”を得たメディアミックスの効果が「女子高生バンドのお話」をより鮮明に突き付ける出来に仕上がっている。
 元よりアニメ化構想と同時にこれは戦略として当然組み込むべき展開手段で、女の子達が素人バンドを楽しむ学園物語という、音売りに格好な題材である以上は、むしろその音楽性、現役中高生に向けてどこか素人臭さがあり文化祭の体育館を思わせる楽曲作りに重きが置かれて当然で、またそれが見事に功を奏した。

 事実、楽器店に足を運ぶ少女達が多くなり、ヴィンテージものの講釈をひとしきり垂れる女の子もいるそうで、楽器店のオジサンが苦笑いしながら頭を掻く様子が目に浮かぶ。秋山澪が使っていたのと同じヘッドフォンをくれと注文が殺到したらしいし、ある種の業界にはあなどれぬ反響ではあったろう。


 ヘビメタ女の苦悩を背負ったさわ子センセには作者の愛嬌がある。べつにその音楽性を掴まえてどうのこうの言う者もいないだろうに、「ああこの身が呪わしい」といった制御出来ぬ“血”の描きに魅せられる。「炎のエコロジー」などを歌うオバメタル・ライジングのオバサマ達もおそらく同様に違いない。そういえば、あのベーシストもレフティではなかったか。

 脚本の妙と言おうか、世代の描きが気に入ってしまう。特殊な部活とその先人達の足跡、デス・デビルの今のあり方は、お茶とスイーツな夢心地少女達に多大なインパクトを与える。色香も重量感もパワーも、女子高生達は大人の凄味を肌で知る。だがこのイケてるお姉様達は現役軽音部に鞭をくれるのでもなければその方向性に激怒するのでもない。元より軽音楽という甚だ広義な括りで存続する文化部だ。代々受け継がれる「部の理念」は、その時感じるままにヤりたいものをヤりたいようにヤる、という一条だけに違いない。

 脅されて顧問になったさわ子センセはステージ衣装のコーディネイトだけ押し付けはするが、彼女等の音楽性に口出しは一切しない。ライブハウスの先輩お姉さんも、おでん屋で奢ってくれたお姉さんも、ああこの子らが今の軽音部なのかと見るだけで、キャピキャピ路線はダメだハードにいけ、なんてことはひと言も口に出さない。実に淡々としたものである。この子達は自分らの音を楽しんでいるならそれでいい、と郷愁にも似た感覚で受け入れているように見える。あずにゃん一人を残して卒業する四人組も、部は今後どうあるべきだと言い残しはしない。梓の代は梓の趣くままにやってくれればいいのである。

 こういう継承のあり方は独特でもあるだろう。多くの部で聞かれる 「部の伝統」 なるものが仮にここにもあるとするならば、それは 「自由奔放」 なのか 「やりたい放題」 なのか。ただ、その世代のバンド名を当時の全校生徒達が知らないなどという事はないのだろう。その時輝いた軽音部バンドの名を生徒達の記憶に残していくのが案外伝統であるのかもしれない。

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