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男の娘

 土曜の深夜に 「フラクタル」 のアニメを見る。 その時刻にまだ起きていればの視聴だが、サラリーマン時代の名残からかサタデーナイトは大概遅くまで起きている。
 酒を飲んでいて遅くなるのが専らだ。 これではろくな死に方しないだろうと思いつつも、庶民のささやかな楽しみまで無くしたくはない。 酒が口に出来ない土曜の夜ほど虚しく寂しいものはないのだ。休日出勤が当たり前のような職種だったし、今の生活も土日祝祭日など無縁であるが、社会人に成りたての頃から自分なりの週間区切りをそこに設けていたものだ。 この女の子をイテこまそうと気の利いたショットバーなどにペアでしけ込んで飲む機会などさすがになくなったが、週末となるとやはり唇の乾きを潤さずにはいられない。

 「フラクタル」 に続く時間帯に 「放浪息子」 をやっている。 ついでに見てしまったのがきっかけで、今では 「放浪息子」 が終わるまで寝ない。 何というのか、これは妙な感じを覚える作品だ。
 女装の美少年とくればヤクザの息子・大空ひばり君とか、「しゅごキャラ!」 で女形を舞う藤咲なぎひこ君を即座に思い浮かべるものの、ひばり君やなぎひこ君は至極当然と言わんばかりにあっさりしたもので、そこには苦悩も切実さもなかった。 前者は女の子の華やかなファッションが好きなのであって、後者は日舞修行の一環であるとする “割り切り” が見られる。
 「放浪息子」 の二鳥修一君の場合は、女の子そのものになりたい願望を持つようで、性同一性障害に悩む人々とは異なるにしても、憧れが膨らむあまり、かなりそれに近い精神状態なのかもしれない。

 見ていて妙な感覚を得るのは “妖しさ” のせいだろう。 中性の妖しさだ。 最近は 「男の娘(オトコノコ)」 とか表現されて、オカマおじさんにはない幼い中性の妖美が静かなブームであるそうだが、妖しく化ける子もまたそれを好む人々も昔から不変である。 古くは白土三平の 「カムイ伝」 でカムイが変装する鏡隼人なる美少年剣士など、実にそれらしい雰囲気を持っていた。 ヅカの男装麗人にオバサマ達が溜息と共に陶酔し、玉三郎の女形には中国の人々も大熱狂した。

 人間は第二次性徴が表面立つまで外見上は中性に等しい。 ベビーフェイスで華奢な男の子が女の子に化ければ、中には本物以上の美少女に見える子もそれは少なくなかろう。
 食い物のせいなのか平和ボケ社会のせいなのか、特に近年は草食系男子が多数を占め、コーヒーカップを鷲掴みにしてがぶ飲みする野卑な男も見られず、化粧品に囲まれてファッショナブルな生活を営む青年が増えた。 そんな世であれば、声変わりする前の男の子も中性的というより少女的になっているのかもしれない。
 あくまで想像だが、自分達の息子はゴツゴツした厳つい青年に育つより垢抜けしたスマートな色男になって欲しいと、多くの若い親御さん達は望んでいるのではないだろうか。 中には、女の子が欲しかったので生まれた長男を女の子のように育てたという御両親もいるだろう。

 様々な環境条件が考えられるにせよ、今や女の子より女の子らしく見える 「男の娘」 が悠然と街中を闊歩する。 いたずら天使のような風貌に好奇の目が注がれるのも、少女達から羨望の眼差しを受けるのも、その子らにとってはこの上ない心地良さなのだろうと思う。
 

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