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日本刀の心

 「ストライクウィッチーズ2」 も終わった。最後は坂本少佐の扶桑の刀、いわゆる日本刀がものをいう。見渡せば日本刀が用いられるアニメのなんと多いことか。「聖剣の刀鍛冶」 では幾度も折り返して鍛錬する呪文も見られた。日本のアニメだから日本刀なのだという訳でもないだろう。西洋の剣や青竜刀に比べてその方がウケるというのならば、美術品としての価値も高いその姿、その美しさ故か。

 そうではあるまい。我々は無意識のうちにその刀を通して日本人の心を見ているのだ。それは高潔を誇る武士の精神、魂と言い換えてもいい。カミソリの代用に髭も剃れる繊細な鋭利さと、骨をも断ち切る玉鋼の強靱さ。鍛錬の過程で生じる絶妙な反り。刀匠と呼ばれる名人がそこに魂を込めて技を発揮する製造方法からしても、ただの長尺刃物とは完全に一線を画するシロモノだ。

 妖刀と呼ばれる物騒なものもまことしやかに語られたりする。今宵の虎徹は血に飢えておる、などというセリフは有名だ。幾人もの血を吸った刀はそうなる可能性があるのなら、そいつは紛れもなく血に飢えた生き物ではないか。武士道を地でいくようなお侍が腰に差しているならいいが、イカれた野郎や暴力団が振り回すのは 「ナントカに刃物」 でしかなく、ただの人斬り包丁だ。やはりそこに魂が存在するという信仰めいた思いは我々が持つ敬虔な感情で、修行と鍛練を積んでその高処に行けた者だけが手にすることが出来るという崇高さを少なからず日本刀に見ている。




 かつて武士は刀という武器をもって世を支配した。武力制圧で民を脅かしたのとは少し異なるが、あのような刃物をかざして 「従え」 と命じられたのでは怯えながらでも言う事を聞かざるを得ない。なにせ庶民には武力がない。その負の部分を埋め合わせるかのように武士が見せつけたのが求道精神や高潔な姿ではなかったか。

 慎ましさの中に研ぎ澄まされる感覚、気高く厳格な礼節を重んじた隠忍自重の姿勢、彼等の魂である刀をもって煩悩を断ち切るという独特の世界観を示し、刀を腰に差して道の真ん中を横柄に歩くが、ある面、自らを厳律の中に置いた修行者の姿と重なって民の目に映った。彼等に対する敬いが徐々に生じたとしても不思議でない。それは精神性に於いて、民の手本ともなった。勿論、庶民に武士の真似が出来る筈もない。理不尽を捨て置かず “恥” を忌むのが美徳とされる、その辺りが道徳観念として庶民に浸透したのではないか。

 有名な松の廊下刃傷騒ぎから赤穂浪士の討ち入り事件、いわゆる後に語り継がれた 「忠臣蔵」 には庶民感情が表れているだろう。時の将軍は希代の馬鹿殿・犬公方である。人間様より犬を大切にせよとの理不尽さは庶民に鬱憤を募らせた。そこで起こった刃傷事件と肩手落ちな裁断に向けられた世論は、野次馬根性と言うよりは、どうにも納得ならぬ閉塞感への反発ではなかったのか。結果、吉良は悪役にされ、お家断絶の浪士達には武士の意気地が期待された。片や理不尽、間抜け面でそれに従順なだけでは “お家” の恥、武士の恥ではないかというものだ。

 やがて悪役の吉良は首を取られ、浪士達は本懐遂げた上での切腹という人々の納得出来る形で騒動は終わる。「さむれぇってなぁよ、やっぱこうでなきゃぁいけねぇわな」 といった溜飲の下げようである。浪士を義士と称え、やんやの喝采で後に幾重にも脚色された物語として現代にまで至らしめるのを見れば、庶民が理不尽に対する武士の意地とその本懐をいかに尊んだのかが窺い知れる。武士でなくとも、侍とは何たるか、どうあるべきかを知っており、武士の美徳はそのまま民衆の美徳として人々の精神に刻まれていた。

 明治になると列強相手に富国強兵の世となり、武士道や神道はそのために利用される。国は武士の精神をそのまま軍に取り入れようとした。侍の世とは違って雑兵が多数を占める国家の軍隊。非戦闘員まで含めた国民に何らかの統一精神を植え付けるには武士道は格好の材料であった。しかしそれは劣勢と同時に妙な方向へねじ曲げられてもいく。

 一億玉砕などという 「城を枕に討ち死に論」 は圧倒的物量と大量破壊兵器の前に役立たず、未来の国家を背負うべき若き命が次々に散らされる。無駄死にだろうが何だろうが死ぬことだけに美を見いだそうとした断末魔の狂気が窺える。敗走の中で子供は泣きわめいて敵に見つかるから始末すると、小さな同胞子女に向け軍刀を抜いた軍人などはそれのどこに武士の精神があろうか。挙げ句の果てには民間人を置き去りにし、我先にとトンズラこいた軍の無様さにはサムライの 「サ」 の字も見当たらない。

 国軍がそのようにだらしない連中ばかりだったと言うつもりは毛頭ない。語り継がれているようにサムライスピリッツな軍人も多くいた。故に敗戦後の復興日本国がある。統制下の教育で国家的精神を植え付けようとしてもおのずと限界があるということだ。また崇高な求道精神はそのような教育で得られるものでもない。幾年にも亘る修行と鍛錬の中にこそ見いだせる。
 オカルト、神霊マニア的な言い方をするなら、そもそも軍刀という大量生産の刀に魂など宿る筈がないではないか。刀匠の身になって考えてみるがいい、軍刀の大半はまがいものの “ナマクラ” でしかなかっただろう。

 焼土の中、占領軍の統治が始まる。醤油は作るなパンを喰え、から始まって日本文化とその精神性の解体に容赦無い。それでも我等の先人達は菜っ葉と塩だけで子を育て、古くから根付いた教えを継承する。黙して耐え忍ぶ厳しさと恥を知らねばならぬ潔身の尊さである。刀と武士が築いた民族の誇れる精神である。
 我々は当時の人々に感謝しなければならない。一度滅ぼされたかのような焼け跡から欧米が目を見張る驚異の復興を為し得たのは、狡賢く物真似上手な器用さを持つ民族であったからではない。GHQの下、異文化を強制されつつも脈々と受け継がれる清廉な日本刀の心を持ち続けたからである。我々が今こうしていられるのはそのおかげだ。



 わざわざそこへ行かずとも豊かになった一部の中国からそこの様子が映像で届く。あれを見る限り、およそ礼節など縁遠い人々に見える。何かあれば我先にと殺到し、ルールは破られるためにありそうだ。チケットを奪い合い、列車への乗り込みも押し合いへし合いだ。とにかく他人より先にそれを手中にせねば生きていけないらしく、手段を選ばず警備員の制止を振り払うみっともない姿には恥も外聞も無いように見える。敗戦直後の買い出しやヤミ市でもあのような真似はしなかったのではなかろうかと、恥を知る日本人の我が目には卑しく浅ましい餓鬼のように映る。

 いいものをパクって何が悪いという風土であるらしい。知的財産とは何たるものかを教えても無駄だろう。国家そのものが国策として技術パクリのし放題なのだからして、鄧小平が言った 「豊かになれる者から先に豊かになれ」 を捩れば、「盗めるところから先に盗め」 といったところか。
 急激に膨れ上がった拝金主義はもはやどうにもなるまい。それまでの道徳観念などは踏み潰されたかに思える。一党独裁の圧政に於けるガス抜きは国と一部の者達に富を与えたが、解放と富に浮かれる中で生まれた拝金主義の甘い蜜味は打ち消しようがない。世界全域にネットワークを誇る華僑に元からそういう素地があったことも否定できない。

 中国は一党独裁の弾圧政策で保っている非民主主義国である。餌撒きも罠も国策として取り仕切る。企業らしきものはそこにあっても真の民間企業など存在しない。安い労働力や市場をちらつかされただけでホイホイ尻尾を振り、のこのこ出向く前にそういうヤバい国であるという認識が甘すぎよう。結果を見てみれば苦心の技術を丸裸にされ吸い取られるだけで、ザマはない。巨大な盗っ人を肥え太らせ、それが今になって脅威だ脅威だと慌てふためいているうちに領土を乗っ取られようとしている。

 鎖国の島国という極めて特異な条件下で育まれた日本人の心は、他国と比較できるものではない。大陸では侵略と報復が繰り返され、それは強奪の歴史でもある。理屈も大儀もへったくれもない、奪ってしまえば勝ち、それでいいのである。そういう歴史の中で彼等の精神は築かれている。我々が思っているほど我々は他国のそれを理解し得ていない。殊に我が国の政財界に於いて顕著に思えてならない。

 外交や他国内での事業に於いて、他国がまさかそんな理不尽なことはしないだろうと踏んで掛かるのは、言い換えれば日本人の持つ 「恥を知る精神」 の尺度で物事を見ているからに他ならない。お前達はとことん馬鹿ではないのかと思ってしまう。敵に塩を送る情けもそこに生ずる義理も、そのようなものには無縁の相手であることを知るべきだ。武士道の礼節をもってすれば相手も応じるとタカを括るのは極めて愚かである。こと外交に於いては、好意をもって当たれば好意的に返ってくるという根拠などどこにもありはしないのだ。

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