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台風あれこれ

 TVのニュース番組では台風情報が繰り返されている。 なんら被害もなかった自分の周囲に比べて、避難生活続きや新たに被災した人達にはあまり見たくない映像だろう。

 いつも不思議に思うことがある。 暴風雨の中、それでも傘を広げようとしている人々だ。 どうしましょう、これではいつ我が家に帰れるか判りませんと嘆いている人々だ。
 いきなり来やがる地震とは違うのだ。 何日も前から台風が来るぞ来るぞ、雨はどのくらい降りそうだぞと知らされているのだから、それ相応の準備で職場に向かえばよいではないか。 何のための情報化社会か。 暴風雨が分かり切っているなら、ずぶ濡れでも惜しくはない身なりで出掛ければいい。 傘など役に立たぬ。 むしろ危険で、煽られ壊れて傍らの他人様に刺さることもある。 今日は戻れないかもしれないぞと言い残して家を出るくらいの気構えあって然るべきだ。
 鉄道が止まる、タクシーもバスも来なくなる、それらは充分な想定範囲内、当たり前の話だろう。 大都市に水が来た。低い場所が危ないのは子供でも判る。 既に地下道は膝下まで水没しているというのに、いつも通りそこを通って歩かねばならんという無神経さにはあきれ返る他ない。

 まさかそれまでもを行政の責任にしようというのでもあるまい。 何があろうとオレ様の日常パターンを崩して貰っては困る、 誰かがなんとかしてくれて当然だとでも思っているのか。 それでは、世の中が悪いと無差別連続殺人に走る狂人の “予備軍” ではないか。 東北で震災だ、えらいことだと都内で買い溜めに走った連中も同じである。 根底にあるのは驚くべき視野の狭さだ。

 都会の連中にだけ物申すのではない。 地方では台風に際し避難勧告が出なかったのが最大の過ち、知らされていれば死なずに済んだ人もいたとの声も大きい。 それは間違いではないが、必ずしもそれだけではなかろう。 行政は住民の生命を守るのが仕事であるのはその通り。 だが、こと自然災害について最も重要なのは、その地元住民達が幾代も積み重ね蓄積してきた体験、経験である。
 どこそこの沢の水が増えると危ないとか、雨の降り方が尋常でないとか、受け継がれてきた地元住民の知識に勝るものはない。 なんたら地質学者だの防災学の権威だのが講釈をまくし立てても、そこに毎日生きている人々が肌で感じ取る異常さの知覚は驚くほど確かである。 現に、自分で判断して自主避難された方々も多くいる。 もちろん、近所の年寄りも連れてきている。

 多くの時間を空調の効いたビル内で過ごしている都会人ならいざしらず、田舎で住んでいるならそういった己の五感をフルに活用しなくてどうするのか。 年寄りから何も学んでいないというのでもあるまい。 箸の上げ下げからケツの拭き方まで行政に頼ろうとするは、ウチの子供を毎朝起こしに来いと学校に怒鳴り込む馬鹿親と何ら変わりはしまい。
 ただ、こういった話も聞いた。 橋も濁流にやられそうになり、これは危ないと避難を決め込んで夜中に避難先の学校まで行ったところが、完全にロックされたままだったという人の憤りだ。 真っ先に避難所の鍵ぐらい開けておけ馬鹿野郎! という人の言い分、まったくもってごもっとも。 責任の所在はどこにあるのか知らないが、とんでもない話ではあった。

 

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