記事一覧

取り扱う能力

 石を器用に使って堅い木の実を割るチンパンジーがいるそうだから、類人猿が獣の骨や木の棒を狩りに使っていたとする人類学者、考古学者の説は間違ってはいないのだろう。 類人猿にとって程良い長さ、太さの棒っきれは、当時考えられる最先端の道具だったに違いない。

 何かを使うという行為を始めた瞬間から人類にとって “両刃の剣” との付き合いが始まった。 アーサー・C・クラーク、スタンリー・キューブリックが作った映画にあるように、こん棒の如き原始道具は彼等の狩猟効率を飛躍的に高めただろう。 しかし同時に、仲間内の諍い事、他部族との戦争には恰好の武器となった。 やがて骨を鋭利に尖らせ、石をナイフのように薄く割って使い、武器は殺傷力を高めていく。 一歩間違えば簡単に人殺しに至る確率が極めて大きくなってしまい、便利な道具である反面、取り扱いに注意を要するという、これは完全に 「両刃の剣」 である。
 火を使い始めるとますます便利になり、地上の人類支配は急加速を辿ったと思われる。 これまた実に便利なものながら、極めて危険なものでもある。 毛皮造りの小屋も乾いていれば容易に燃えてしまうのだ。 草木の住居に住んだ太古の人々などは特に気を配ったことだろう。 それ故、江戸時代などは 「火付け」、いわゆる放火の罪は現代よりはるかに重罪だった。

 産業革命以降の戦争はエネルギー資源、天然資源の争奪戦でもある。 ここに至って戦争そのものが科学技術発展の後押しとなり、文化生活関連よりも先に新兵器開発から科学の技術が進歩したのは皮肉であり、忌まわしい世界的な戦争がもしもなければ今ほどの技術文明は得られていないだろうとまで語られるのを聞くに、これも両刃の剣と共に歩む人類が背負う “業” のようであるかに思う。 周知の如く、航空機の技術も原子力開発による最終兵器も、多くの技術の研究開発が戦争によって加速したのは事実である。


 フクシマ以降、原発をどう扱うのか、今後どうするのだという議論が世界中にあるようだ。 ただそれは、原発を現在稼働させて比較的長く依存してきた国々での話であって、今から原発でタービンをぶん回すのだという途上国や深刻なエネルギー不足の国々ではまるで他人事に過ぎない。 あなた方は止めたければ止めればいい、我が国はそれでは国家維持できないのだ、放っておいていただこう、となるのは当然である。 なんだその勝手な言い草は、核弾頭兵器を懐に抱えた連中に言われたくはないわい、という思いもあるだろう。 その点はCO2削減問題と同様だ。

 我が国はどうあるべきだろうか。 現首相のエネルギー政策転換論は青臭い絵空事か。 少なくとも耳障りだけは良いが、言っている当人が当人だけに 「どうせいつもの大風呂敷」 「我が身延命策の中身無い思い付き発言」 としか国民は受け取ってはいまい。 本気でやる気ならば党内をそれで統一させ、大看板でも掲げるだろう。 身内からもボロカスに叩かれまくりの現状では、痴呆老人が夜中に徘徊して奇声を上げているのと変わらない。
 ただし、今回少し明らかになったように、国策として原子力を採用、推進してきた国にはまったく管理能力がない。 ひたすら国費をばらまいて 「安全だ安全だ、お前達の土地には国から銭が降りるぞ」 としてきた利権構造のあらましと、ずさん極まる役人根性の 「ワシや知らん」 管理では原子力など到底任せられないではないか。

 究極の 「両刃の剣」。 無責任な国や天下り組織でしかない電力屋にはこれを扱う能力も資格もありはしない。

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://www.yotchn.com/diarypro/diary-tb.cgi/148

トラックバック一覧